わらべの楽苦画記(らくがき)

絵本画家・飛鳥童の人生航路

第2回 闘病編


家族そろっての生活始まる


私の中学入学に合わせて母は神戸から高松に帰って来て、家族そろっての生活が始まった。母は神戸・元町で当時まだ珍しかったオートクチュール(高級仕立服)の技術を学んだお陰で、三越はじめ、商店街の高級洋装店、病院院長夫人などから洋服のデザイン、仕立ての仕事が舞い込むようになった。

お得意様が増えるにつれ、住み込みを含めてお弟子さんたちも10数人に増え、その中には「ミス岡山」に選ばれた美女も週に何度か母のもとで洋裁や礼儀作法など、花嫁修業のために県外から通って来た。彼女が我が家に来る日には、三越や商店街の担当者は普段は女性なのに、なぜか男性の上司たちが顔を出すようになり、また、ばぁば(祖母)の弟の県会議員までが「ハンカチにアイロン掛けてくれんかの」、「ボタンが取れたんや」などの口実を作ってよく訪ねて来た。

日中は仮縫いなどで訪れるお客様の出入りが多く、ばぁばも来客のお茶菓子の用意や住み込みのお弟子さんたちの食事の準備で一日中忙しく働いていた。我が家が来客で賑わうのはうれしいことだったが、家族のみでゆっくり話す時間がなくなり、兄と私には不満だった。だが、みんなそろって生活できることの喜びの方が大きかった。


▲中学時代、母のお弟子さんたちと。後列左から、母、筆者、ばぁば、叔母。前列中央が「ミス岡山」の女性

足の手術で7カ月入院、中学3年で留年

私が入学した高松の中学校は、1クラス50数名、1学年22〜24組、全校生徒数3200人余りの四国、中国地方でも珍しいマンモス校で、その規模の大きさに戸惑った。坂出の山の麓(ふもと)の少人数の小学校とは違い、毎朝運動場に3200人が集まる朝礼には圧倒された。生徒数が多いだけにスポーツ、文化行事、進学率も県内では絶えずトップの座を占めていた。

私にとっては村から町への生活に胸を躍らせていたが、学校生活での団体行動の時間に疎外感を味わうようになった。体育の授業や運動会、毎朝の朝礼、課外授業、遠足などの行事の時、私は皆と同じ行動をしているつもりでもどうしても遅れを取り、ついて行けなかった。先生達はそんな私に「おい、疲れたんなら列から外れてろ」と言い、やがて「お前、もう無理しなくていいぞ」という言葉に変わってきた。その言葉のニュアンスから「皆の迷惑になっているんだ」と感じると共に、組織が大きくなると、個よりも全体の調和が大切なんだということを悟った。

以来、私は体育の授業のみでなく朝礼にも出なくなった。教室に一人残って窓の外を見やり、自分の体より大きな給食のパンくずをせっせと運ぶアリの列を観察し、花の蜜を求めて飛んでくる蝶々や昆虫の頑張る姿に元気をもらい、季節ごとに移り変わる草や木々のたたずまいを眺めているだけで、不思議と心が癒やされた。やがて同じクラスに私のことを気遣ってくれる友人ができ、課外授業や遠足の時には彼が手を貸してくれ、背負ってくれたりした。お陰で行動範囲が広がり、友達の輪が広がった。

入院当日にいきなり手術
中学3年の秋、市役所福祉課から「左足手術に関する入院手続き通知書」が届き、驚いた。高校入学試験を控え、せめて来年春の卒業式を終えてからの手術を希望したが、既に12月中旬からの入院が決まっていた。実際に入院したのはクリスマスの一週間前の午前中だった。

その日にいきなり看護婦さんから「午後から膝(ひざ)の手術をするんで、準備しといての」と告げられて驚いた。生まれて初めての入院、手術なのに心の準備をする間もなくあっという間に手術室に運ばれ、整形外科医の簡単な説明の後、全身麻酔を打たれた。気が付いた時には病室のベッドに横たわり、左足には大腿部から足首までずっしり重いギブスが巻かれていた。

寝返りもできぬ窮屈な日々が一カ月半以上続き、ようやくギブスが取れる日がきたが、電動カッターでギブスを切るのは想像を絶する怖さで、まさに身を切られる思いだった。ギブスが取れると翌日からマッサージ師が来て、固まっている膝の筋肉をほぐしながら膝を曲げる訓練を施してくれた。これがまた息ができぬほど容赦なく強引にぐんぐん押し曲げる。思いっきり悲鳴を上げてもマッサージ師は力を緩めることはしなかった。


▲イラスト「だれの足あと!?」。手術後のリハビリで初めて松葉杖の訓練

膝の具合が良くなりホッとする間もなく、2回目の手術が待っていた。今度は担当医が手術の内容を詳しく話してくれた。それは、くの字に曲がった足首を直角に治すために足の甲の骨を削り、かかとからパイプを入れて直角に固定する。内側に曲がった5本の足の指に針金を一本ずつ通して真っすぐに伸ばす。人工のアキレス腱を埋め込む、などなど頭の中が混乱する内容だった。

いざ手術台に横たわり、「まな板の上の鯉(こい)」になって気付いたのは、前回よりも医者と看護婦の数が増え、更に二階のガラス張りの部屋からは10数人の研修医たちが緊張した面持ちで私を見下ろしていた。やがて手術が始まり、「ノミ、ハンマー」の医師の声と共に「カンカン」「トントン」ハンマーを打つ音が手術室に響き、その振動が頭のてっぺんまで伝わってきた。頭脳に支障をきたすのでは?と、何とも不気味な感覚に襲われた。

今度は半身麻酔だったので、医師たちの会話もすべて聞き取れた。2階席の研修医たちの表情も見て取れ、メモを取っている人もいた。手術は3時間にも及んだが、緊張感はなく、音だけを聞いているとまるで手術室で大工仕事でもしているかのような感じだった。

大人の世界に仲間入り
術後一週間は痛みが続いたが、時間の経過と共にそれも解消し、同じ病室の人とも親しく話ができるようになった。5人部屋には、お酒好きの外国航路の船員、小学校の校長先生、元チンピラだった紳士服仕立屋、建築業など、私以外は大人ばかりだった。船員は時々外国での失敗談や海外の様子などを聞かせてくれ、大いに興味を注がれたが、他の人たちの会話は18歳未満の少年にはふさわしくない話題でしばしば盛り上がっていた。そんな環境で何カ月も同じ部屋で一緒に生活をしていると、学校では教わらない大人の世界にどんどん染まっていくような気がした。今ごろ同級生たちは受験勉強の真っ只中なのにこれでいいのだろうか、と考えてみたがどうすることもできなかった。


▲イラスト「入院中の妄想」。月刊誌に掲載される

新聞記事「友情のバトンタッチ」に紹介される
3月に入ったある日、教頭先生と私の世話をよくしてくれた同級生、3人の学生、そしてカメラマンらしき人がいきなりバタバタと病室に入ってきて、私のベッドの周りを取り囲んだ。教頭先生は「この3人は下級生だ。ちょっと写真を撮らせて欲しい、いいかな。」と言うなり、カメラマンは数枚写真を撮った。そして、わずか10分ほどで全員部屋から去って行った。教頭先生は私の容体など何も聞かず、一体何の写真撮影なのか? キツネにつままれた気持ちだった。

その翌朝、看護婦さんが慌てて私のところへやって来て、「これ、あんたでしょ。大きく出てる、すごいねぇ〜!」と新聞を広げて見せてくれた。驚いたことに私を中心に同級生と下級生の写真が大きく紹介され、「友情のバトンタッチ」という大見出しが付けられ、社会面のトップ記事になっていた。その記事は、同級生が入院して卒業できない友人を思いやり、下級生に私のことを頼んで巣立っていくという内容の美談にまとめられていた。

その同級生には3年間お世話になり、恩人でもあり感謝していた。でも、病院では教頭先生をはじめ誰からも何の説明もなく、下級生の名前すら紹介されなかった。卒業シーズンにはどの学校もマスメディアも美談を求めてネタ探しに躍起になることは知っていた。でも、同級生たちが卒業して新しい高校へ進学する時期、一人病院に取り残される生徒のことよりも、学校も企業同様の広報活動を優先するのだろうか。一言でいいから説明をして欲しかった。そう考えるとむなしさが募ってきた。

7カ月ぶりに退院
その後3度目の手術を経て、無事退院できたのは7カ月後の夏休みだった。退院後も膝の筋力がないので足首から大腿部までの補装具を付けることになった。でも左手の支えがなく歩け、左右の揺れも少なく左手が解放され、両手が自由に使えることの解放感は無上の喜びだった。

やがて秋の新学期が始まり、私は一学年下のクラスに編入になったが、病院に下級生を連れて来た教頭先生に何度か廊下ですれ違った。でも私のことは全く覚えていなかった。また、紹介された下級生がどのクラスなのかも分からず、新聞記事で紹介された「友情のバトンタッチ」の記事は、一体何のためだったのだろう。ふと、小学校の時と同様に無言の抵抗を思いついたが、今度は教頭個人ではなく、学校全体3200人の生徒と100人足らずの教師を相手にすることになることを考えると、その勇気はなく、あきらめた。

生まれて初めてのファンレター
その後、下級生のクラスに編入したが、なぜか授業に身が入らなかった。特に図工の時間にはしばしば先生から「おい、空になぜそんな色を使うんだ」、「なんでそんな描き方する、他の連中を見てみろ!」と言われ、絵の時間も嫌になった。

ある日、校内の廊下に「クロッキー倶楽部部員募集」の張り紙が目についた。生徒同士で自主的に運営していることに興味を抱き、生徒が交代でモデルになり、数分間の鉛筆の速描写で次々描き進め、最後に生徒同士でお互いに寸評するやり方は醍醐味があった。それを契機に倶楽部活動とは別に独自に水彩画を始め、油彩画にも取り組み、海の記念日や美術展、絵画コンクール等に積極的に出品し、金賞、教育委員長賞、知事賞など次々に受賞した。表彰式は朝の朝礼時に行われ、全校生徒の前で校長先生から表彰状が手渡されるのだが、私は手術後も朝礼には出なかったので、クラスの代表が代理で受け取ってくれた。

卒業式を控えたある日、私の下駄箱の中に一通の手紙が入っていた。「朝礼の表彰式に、いつ、あなたの姿が見られるのか、楽しみにしていました・・・・・・あなたの頑張る姿に元気をもらいました。これからもがんばってください!」と書かれていた。数階上の別のクラスの知らない女の子からの手紙だったが、どこかで、誰かが見ていてくれたことがうれしく、大きな励みになった。


▲イマジネーション遊びから「カモメの天使たち」(油彩画)が生まれる

▲イマジネーション遊びが「満月の夜のサッカー」(油彩画)の源

長期入院生活で得られたもの
結局、中学校はやむなく1年間留年したものの、7カ月の入院期間中ギブスを巻かれて身動きできず、ベッドに横たわっていた間も絶えず窓の外に興味を持って目を向けていた。限られた窓枠の中に映る空の色、夜の月や星、雲の形、瞬時の鳥の姿、雨や風や雷の音など、外界の目にするすべてが私の遊び相手になってくれた。そして、風や雲に乗り、鳥の背中に乗れたら、花園にはどんな蝶々が・・・、などなどイマジネーション・ゲームを楽しんでいた。後にイラストレーター、アーティスト、絵本作家として想像の世界を思う存分広げることができるようになったのは、10代中半の思春期の長期入院生活体験の賜物のような気がする。〈つづく〉

〈 トロント 飛鳥童(あすか・わらべ)・記 〉

(2012年4月5日号) 【編集部より】「わらべの楽苦画記・第1回郷愁編」はアーカイブの「アートエッセー」をご覧ください。トップページ「今週のトピックス・目次」の下の「過去に掲載のトピックスはこちらからどうぞ」をクリックすると見られます。

 
 


 
 
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