【インタビュー】

カナダ最大の音楽イベント「Canadian Music Week」に招待された
ジャズバンド「徳田雄一郎 RALYZZ DIG(レリーズ・ディグ)」
バンドリーダー徳田雄一郎さんに聞く


〈 インタビュー&撮影: デムスキー恵美 〉


カナダ最大の音楽コンファレンス「Canadian Music Week」は、今年で創設30周年を迎えた。3月21日から25日までの5日間、トロント市内60のべニューに、内外から総勢900名を超える音楽関係者やミュージシャンを招いて、さまざまなイベントやコンサートが開催された。この間、トロントの町は夜遅くまで、音楽ファンでにぎわった。


▲RALYZZ DIG の演奏風景(3月23日、トロントの Tranzac クラブにて)

この一大イベントのジャズ部門、「Jazz Showcase」には新鋭サックス奏者、徳田雄一郎さん率いるバンド「徳田雄一郎 RALYZZ DIG」が招待され、市内3つのべニューで熱演。その圧倒的なパワーフュージョンの世界と、リリシズムあふれる美しい楽曲が織りなすオリジナルなサウンド構成で、聴衆の度肝を抜いた。


▲バンドリーダーでボーカル&サックスの徳田雄一郎さん

バンド名、RALYZZ DIG(レリーズ ディグ)は、Dig Ray+Lyric+Jazz(熱く叙情的で胸打つジャズを探求する)を結合した造語だそうだが、彼らのライブステージを体験した者は疑いもなく、このバンドのサウンドを的確に象徴した命名であることに納得してしまうことだろう。

メンバーは、サックス&ボーカル担当のリーダー、徳田雄一郎、ギターの鈴木直人、ピアノの田村和大(かずひろ)、ベースの中林薫平(くんぺい)、そしてドラムス・長谷川ガクのクインテット編成。


▲ギターの鈴木直人さん


▲ピアノの田村和大(かずひろ)さん


▲ベースの中林薫平(くんぺい)さん


▲ドラムの長谷川ガクさん


▲演奏が終わって全員集合  All Photos by Emi Demski

トロント公演最終日にあたる23日、ライブハウス、Tranzac での演奏前、リーダーの徳田雄一郎さんにお話をうかがう機会を得たが、同席していただいたメンバーとの音楽談義にも花が咲き、時間の経過を忘れてしまうほど、楽しいひとときを過ごすことができた。

トロント公演のあと、徳田雄一郎、鈴木直人、田村和大の3氏は、在カナダ日本国大使館主催の震災復興イベント、「絆コンサート」出演のため、オタワへ向かった。

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─まったく予備知識のない段階で、徳田さんのサックス演奏のライブビデオを拝見したとき、「このアーティストの肺活量はすごい!」と感じました。後で知ったのですが、小、中学生時代、陸上部に所属していたとか。そのころは、音楽の道に進もうとは考えていなかったですか。
(徳田)−まったく考えていなかったですね。なにしろ、真剣に箱根駅伝をめざしていましたから(笑)。

─いつごろ、何をきっかけに音楽の道を目指すようになりましたか。
(徳田)−高校生の頃、ジャズファンであった父親のアルバムコレクションの中から、ポール・デスモンドのアルバムを引っ張りだし、彼のサックス演奏を聴いて感動しました。ジャズってすごいなぁ、何て自由な世界なんだろうってね。
そんな時、祖母から僕が生まれる前に亡くなった叔父(父の弟)の形見であった、アルトサックスを見せられました。それは、ヤマハ楽器の前身、日本楽器のものでした。それを見て感銘を受け、その時、ぜひ、この楽器を演奏してみたいと思うようになりました。

─そのあと、音楽の名門校、ボストンのバークリー音楽院をめざして単身渡米された。18歳の徳田さんにとって、そこはどんな世界でしたか。
(徳田)−予備知識は持っていたつもりでしが、初めのうちは夢見心地でした。周りを見回すと、すごいなぁ、という人ばかり。これから伸びるだろうという可能性を持った人が多くいましたね。その中に現在、ドラムスをたたいてもらっている長谷川ガクさんがいました。

─バークリーでの生活を前半と後半に分けて振り返ってみると、それぞれ、どんな時期にあたりますか。
(徳田)−前半は無我夢中で、練習練習の毎日でした。2年半くらい経過してから、自分のバンドを組み、まずストリートで演奏を始めました。そのあとは、クラブや結婚式での演奏を引き受けたり、次第に仕事がもらえるようになっていきました。その時のバンドで、ドラムスをお願いしたのが長谷川ガクさんでした。

─ご自身のスタイルを確立したのも、その時代ですか。
(徳田)−そうですね。特に後半には、刺激的な人々との出会いがありましたから、次第に自分のスタイルが出来上がっていったと思います。

─卒業後、北米に留まらず、日本を活動拠点に選んだ理由は?
(徳田)−当然、留まろうか、帰国しようかの決断にせまられた時期がありましたが、先輩たちにも相談し、結局、日本を拠点にする決心をしました。帰ると決めたら、早く帰って、自分を確立したほうが良いだろうということで、卒業後、半年くらいたってから帰国しました。

─帰国後の活動の場は?
(徳田)−帰国後は、ボストンでの経験を生かして、まずストリート演奏から始めました。良い評判をいただくうちに、新聞で取り上げていただいたりして、あちこちに演奏の場が広がっていきました。
そのうち、自分のバンドを持ちたいと思うようになり、まず、4人編成のバンドで千葉で演奏していました。しばらくしてから、ギターの鈴木直人さんに加わっていただきました。直人さんは、「ギブソン ギターコンテスト」で優勝するほどの名ギタリストですが、出会った時は、ドラムスをたたいていたので、ドラマーだとばかり思っていました。

─その後、ライブハウスの老舗「新宿 PIT INN」での演奏スポットを手に入れられましたが、かなりの狭き門ではなかったですか。
(徳田)−千葉で演奏していたバンドのライブ録音を送ったところ、昼の部で演奏させてもらえるという返事をいただきました。それから1年くらいして、初めてのCDリリースをきっかけに、夜の部で演奏させていただくことになりました。25歳の時でした。

─日本には、多数のライブハウスがありますが、他にはない「PIT INN」の魅力というと。
(徳田)−音楽家目線で経営している。演奏しやすいですし、音楽家に優しいという印象がありますね。

─これまで4枚のアルバムをリリースしていて、そのうちのどれかが、幻のレコーディングになったと聞きましたが、何があったのですか。
(徳田)−あれは、PIT INN での初めてのライブレコーディングの時のことで、2セッションを終了してほっとしたところで、機械的なトラブルで音源は何も残っていなかったことを知らされ、愕然(がくぜん)としましたね。しかし、済んでしまったことは仕方がない。良い練習になったとあきらめ、次のチャンスを待つことにしました。

─その次のチャンスはやってきましたか。
(徳田)−はい、それから3カ月ほどたってから、PIT INN で2度目のライブレコーディングに挑み、今度は大成功。前回よりはずっと良い結果となりました。

─昨年は演奏だけでなく、アメリカ、イギリスの作曲コンテストでも高く評価され、数々の賞を受賞されましたが、受賞曲「Nothing There」は、どんな時に生まれた曲ですか。
(徳田)−え〜っと、あれは、ふられた時に書いたものです(笑)。
(長谷川)−それ、初めて聞いた(笑)。

─昨年はまた、マレーシアや中国で開催された国際ジャズフェスティバルにも参加されましたが、アジアのジャズシーンについては、どのような印象を受けましたか。
(長谷川)−中国南京に関しては、僕たちは他のバンドの演奏を聴いていないので、自分たちの意見はあまり言えないのですが、オーガナイザーのお話によると、中国の人々は、フォークソングをこよなく愛する人々なので、ジャズを聴く機会があまりない。もっとジャズにもなじんでもらおうという意向から、これまで10年間ずっと、国際フェスティバルを続けているそうです。
聴衆からの反応はとても良かったですし、人々が良いジャズを聴くチャンスが増えてくれば、中国のジャズシーンは、とても面白いものになってゆくと思います。上海などの大都市部では、ジャズは盛んなようですが。

─さて、これから日本のジャズシーンはどんな方向へ向かってゆくと思いますか。
(中林)−情報量の少なかった昔は、音楽に関しても同様、大きなムーブメントを起こしやすい時代だったと思います。いまは、インターネットの普及により、流行などに振り回されることなく、個人が確信を持って、新しいものにチャレンジしたり、作り出していける時代なのです。まさに、インディの時代ですね。だから、これからも大きなムーブメントはきっと起こらないと思います。

─アーティストにとっては、とても良い時代になったということですね。
(中林)−そうですね。ただ、個人の力は弱いので、良い音楽を作っても、なかなか注目してもらえないという苦悩があります。そこをどうやって、若い世代にアピールしてゆくかが、いま僕たちの世代が直面している課題だと思います。

─さて、今年はどんな年にしたいですか。
(徳田)−引き続き国内外を問わず、精力的に活動していきたいと思っています。また、新しいアルバム制作の準備期間にしたいとも思っています。

─これから、徳田さん、鈴木さん、田村さんは、オタワでの震災復興イベント「絆コンサート」に出演されるわけですが、カナダの皆さんへ向けて、どのようなメッセージを送りたいですか。
(徳田)−震災の際には、世界中の皆さんから、たくさんの温かいご支援をいただきました。ご自身の生活にあまり余裕のないような方々まで、義援金を届けてくださいました。それまでの日本は、他の国々を助ける立場にありましたが、それを覚えていて、お返しをしてくださったのかもしれないとも思いました。辛い出来事でしたが、人々の温かさ、助け合うことの大切さを強く感じさせられました。
オタワでは、日本を代表して心から「ありがとう」の気持ちを伝えたいです。

(文責:デムスキー恵美)

(2012年3月29日号)

 
 


 
 
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