【世界の街角から】

やっぱりニューヨーク (その1)

イサム・ノグチ庭園美術館


〈 オンタリオ州ロンドン市 ウィルソン夏子 〉


 

2月の下旬、ニューヨークでは冷たい雨が二、三日降り続いていた。きりっと、美しくそびえ立つ高層ビルも雨にしっとりと濡れている。こんな日は、何か「日本的」なものが見たいなあと思い、「Isamu Noguchi Garden Museum」(イサム・ノグチ庭園美術館)を思いついた。日本人を父に、アメリカ人を母としたこのアメリカ生まれの彫刻家の名前は聞いたことはあったが、詳しいことは全く知らなかった。

ノグチ美術館はニューヨークの中心街ではなく、東部のクイーンズ地区にあった。この地域にはまだ行ったことがない。地下鉄を二度乗り換えた。地下鉄を降りてみると、人々の服装は、「粋な」というよりも、気楽な「普段着」だった。

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▲「ブロードウェイ」という地下鉄の駅を降りると、こんな落書きの絵がまず目に入った。誰かが残した一つの表現

ここがクイーンズ地区なのか。さまざまの国から来た移住者の多くがこの地区に住んでいるらしい。さて、ここから、またバスに乗らねばならない。15分か20分ほど待った。しびれを切らして、タクシーを止めたが、若い運転手さんは「僕はそんなところ、行ったことがないから分からない」と断られてしまった。この地区は、マンハッタンのように、住所さえ分かれば、だれでも行けるという地区じゃないらしいのだ。ここはもうニューヨーク市ではなく、ロングアイランド市なのだ。やっと来たバスの運転手さんは親切で、美術館のバス停に近づくと、「あれ、ですよ」と教えてくれた。

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▲イサム・ノグチ庭園美術館

バスを降りると、右にはコストコの店があり、道路の反対側には、自動車の修理工場や倉庫などがあった。美術館があるという雰囲気じゃないなあ、と思う。
「ここに来るのは、とても大変だったわ」と言ってみると、若い係員はにっこりしただけだった。

庭に出てみる。こぢんまりした庭にいくつかの彫刻があった。まず、目に映ったのは、白い小石がいくつか並べてある所だった。京都の龍安寺の石庭を思い出した。

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▲石が並ぶ庭

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▲三人が一体となっている像。ある家族像とも見える

父は野口米次郎という詩人、慶応義塾大学の教授だった。母レオニー・ギルモアは、米次郎の詩の英訳の助け人として、二人はニューヨークで出会った。イサムは、1904年(明治37年)カリフォルニアで生まれたが、しばらくすると父は日本に帰国してしまう。母と2歳半のイサムは、父を追い、日本に住むが、父はある日本人女性と結婚してしまう。母とイサムは、東京の大森、そして神奈川県茅ケ崎などと住居を変えた。この間、母親は、息子が芸術家になることを強く願い、イサムは、木工品を作る家具職人である指物師の下で、道具の使い方を習った。この時代、「いじめ」にも遭ったそうだ。

13歳になると、彼は、一人でアメリカに送られる。インディアナ州のある高校に入るが、高校が閉鎖されたりする。しかし、ここで父親代わりになる人や、彼を彫刻の道に進める芸術家に出会う。34歳頃から彼の名は、アメリカで認められはじめ、以後、世界の前衛彫刻家として名をなす。1988年、84歳の生涯を閉じた。

ノグチ美術館の館内に入る。広い空間に、いくつかの彫刻が立っていた。

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▲館内の風景。右の黒い輪は「深夜の太陽」

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▲「女」

 

二階に行く。イサム・ノグチがデザインをした「AKARI」と呼ばれるランプがある。これを見て、「ああ、この人がこういうランプの創始者だったのか」と知った。岐阜提灯(ちょうちん)を見て、アイデアを得たのだそうだ。


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▲イサム・ノグチがデザインをした「AKARI」と呼ばれるランプ。

イサム・ノグチの石の作品もユニークなものばかりだ。彫刻家によって、無口な石は解放されて自由になる。彼の石の作品は、私には、魚にみえたり、芋虫にみえたり、人間に見えたりした。そればかりではない。ある作品は、やわらかな焼き立てのパンのようにも見えたりもした。

 

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▲ 床の枠で、「インドの思い出」

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▲「魔の山」

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▲「ゆっくり、ゆっくり」。かたつむりはじっとしていなくて、はって進む

 

美術館を一回りして、係員と話してみると、ここは20年以上も彫刻家イサム・ノグチの仕事場だったのだ、ということが分かった。つまり、彼にとっては、広いスタジオが手に入り、仕事がしやすい場所だったのだ。訪問客には不便である理由が、これで分かった。

この建物は、1961年、彼自身が工場を買い取り、1975年にはガソリンスタンドを買い取った。そして拡張し、改装したのだそうだ。道を隔てた所に工房もあった。生存中、2階は彼の生活の場だった。床の間があり、寝室があり、日本的なムードを醸すような雰囲気があったそうだ。1985年に、「イサム・ノグチ庭園美術館」として一般公開されるようになった。

館内で見たビデオ映像の中で、金づちで、石をこんこんと打つノグチの姿が印象的だった。角ばった石に丸みを帯びさせながら、彼は、芸術家としての使命と喜びを感じていたに違いない。それらの作品は、美術館の中で風雨から守られ、次の世代、次の世代へと伝わっていく。香川県高松市牟礼(むれ)町にもイサム・ノグチ庭園美術館があるが、生涯を閉じたこのニューヨークの地に、彼の美術館があることに大いに感謝したい。

「僕の国は、日本なのだろうか、アメリカなのだろうか」という迷いは、この彫刻家に生涯つきまとったようだ。しかし「僕は世界に属している」という考え方をした。だからこそ、この彫刻家の作品は、全世界の人々に通じるのだと思った。この美術館を訪れて「日本的なもの」は、同時に「世界的なもの」でもあるのだ、と知った。
(※作品の題と作者の言葉は、美術館のカタログ参照)

(2012年4月12日号)



 



 
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