わらべの楽苦画記(らくがき)

絵本作家/画家・飛鳥童の人生航路

第3回 工芸高校編



専門学校に入学
中学時代に挑戦した絵画展で受賞した実績が認められ、全国に東京、名古屋、大阪ほか数校しかない工芸学校の一つ、高松工芸高校に入学を許された。工芸科には私が希望した図案科(現・デザイン科)のほか、木工科、金工科、塗装科の4科があり、そのほかに普通の工業高校と同じ機械科、電気科、化学科、建築科の4科を合わせて8科、すべてが男子生徒で占められていた。


▲高松工芸高校時代のデッサン2作品。左は2学年、右は3学年(1962年)


▲演劇祭のポスター・デザイン試作

ただし、図案科のみ女子の入学が許され、1クラス25人のうち男子13名、女子12名の少人数だった。
大半が男子で占められているので、生徒は全員坊主頭、細身ズボン禁止、革靴禁止、制帽の変形やワックス塗り禁止など、校則が厳しく設けられていた。
その上、威勢のいい大人数の機械科の生徒たちは時々他校の生徒たちとけんかをして問題を起こし、朝礼の時に全生徒がポケットの中まで調べられる身体検査を受けることもあった。
一見荒れた高校のように思えたが、自分の将来の仕事に目標を持って学んでいる生徒が揃っていた。特に工芸科は生徒も先生も個性的な連中が多く、それが時として自己主張のぶつかりとしてトラブルの原因になったりすることがあったが、普通校にない自由かつ緊張感が漂う校風が私に居心地の良さを与えてくれた。

障害者に障害の壁はどこまで立ちふさがるのか
私が専攻した図案科は3年間の間に商業デザイン、工業デザイン、日本画、テキスタイル、工芸学など盛りだくさんのカリキュラムが組まれていたが、いずれも興味があり、普通科目の授業よりも実習時間は数倍楽しかった。
3年間でこれらのカリキュラムを習得するのは至難のわざだが、将来社会に出て仕事に就くには選択肢が多い方がいいだろうという教育方針は理解できた。更に自分の進む道を究めるために2学年の2学期から進学コースも設けられていたので、私も進学を希望していた。


▲秋の文化祭で「白浪五人男」に選ばれる(写真右)。左の写真は3年間共に学んだ図案科の級友たち。最後列左から2人目が筆者


▲卒業制作展に出品し、売約済みになった大作「群鶴」の下書きのスケッチ

ところが、2学年の夏休み前の教師と父母懇談会に出席した母から思いがけないことを聞き愕然(がくぜん)とした。それは、私の入学に関して職員会議で図案科科長が「うちの科に障害者は受け入れたくない」という発言があり、私の入学が拒否されそうになった。ところが、その発言に対して金工科科長(日展審査員)が「たとえ障害者なれど試験に合格したのだから、他の生徒と同じように受け入れてあげなさい」の一言で私の入学が許可されたらしい。
その経緯をつぶさに知っていた私の担任教師は、「息子さんの入学に尽力して下さった金工科科長に一言お礼を述べてはいかがですか」と母に伝えた。母はその日の夜、「お世話になった金工科科長を訪ね、丁寧にお礼の言葉を伝えてきたので、あなたは何も心配せんと、とにかく頑張り」と言ってくれた。
でも、私には母から聞いた科長の言った「障害者は要らない」という言葉が信じられず、教育者って一体何なんだ? そう考えると無性に怒りが込み上げてきて、やる気をなくしてしまった。
もし私が車椅子の障害者ならば学校側に施設改善の必要が生じるだろう。でも、中学校時代に7カ月の入院生活を経て留年した暁に、健常者と同じ気持ちで新たな高校生活を歩み始めたばかりなのに、なぜ本人に会う前から障害者を排除するのか。しかも進学を決めた矢先にこの偏見は一体何なんだ。
どんなに辛抱し、頑張っても障害者は障害という壁を乗り越えられないのだろうか。この先、大学へ進んでもまた同じような体験をするのだろうか。そう考えると悔しさと共に新たな意欲が湧いてきて、大学進学はあきらめ、社会に出て思いっきり自分の実力を試す覚悟をする。

社会勉強のお誘い
工芸科には各学年の担当とその科を統率する科長がいた。図案家の科長は私の入学を歓迎しなかったし、教師の仕事の傍ら自分のデザイン事務所を経営していたので、昼食時に外出したまま、しばしば授業に遅れてくることがあった。教師と自分の仕事のどっちを優先しているのか疑問に思うことがあり、なぜか入学当初から科長の授業には身が入らなかった。
その科長から3学年に入ってから「私のデザイン事務所で社会勉強しないか」のお誘いがあった。卒業生が就職していることは知っていたが、まだ卒業していない生徒をなぜ自分の事務所に誘うのか理解できなかった。だが、断る理由もなく社会勉強のためならということで学校の授業が終わった放課後や週末に通った。
仕事の内容は「キュウリのきゅうちゃん」のお漬物のパッケージや細かな仕事だったが、自分のデザインした仕事が印刷されてスーパーなどの店頭に展示され、無報酬だったが良い経験になった。

初めての仕事が舞い込む
ある日、小学校時代の疎開先でお世話になったばぁばの弟の経営する清涼飲料会社が雪印乳業と契約し、映画館用のスライド広告を出すことになったのでそのデザインをして欲しいとの思いがけない申し出を受けた。
そのためのアイデアスケッチを練りに練り、最後の仕上げを、学校の教室の方が落ち着けるので放課後に残って制作していたところ、運悪く科長に見つかり、「何してるんだ! 学校でアルバイトはするな」と厳しいお叱りを受けた。
科長も時々プライベートな仕事を学校に持ち込んでいたのを目撃していたが、先生は良くて生徒は駄目だという校則があるのだろうか、それとも「キュウリのきゅうちゃん」のパッケージデザインよりも雪印乳業の劇場用コマーシャルの仕事を生徒が受けたことに何か問題があったのだろうか。
いずれにしても劇場用スライド広告を完成させ、実際に映画館に足を運び二本立て映画の合間の休憩時間に自作品が劇場の大スクリーンに放映されたのを見た。その時の喜びはひとしおで、やれば出来るんだという自信を授かった。

東京への就職が決まる
3学年の後半を迎え、学校では就職活動が最重要課題になっていた。私を育ててくれたばぁばや母、叔母、そして故郷への熱き思いはあったが、社会に出て都会に行けば学校の先生たちから受けた障害者に対する偏見、差別から解放され、もっとより自由な世界があるのではないかという希望と期待感を母に話した。


▲「月の巣」。枯れ枝を口にくわえて「月の巣」を作る鳩に、自由と希望を求めて新しい社会へ旅立つ自身の姿を表象した作品

すると、母は亡き父の東京の友人に相談してくれ、父の昔の職場の3年先輩の日野自動車販売(株)の天野千代吉社長に連絡をしてくれた。会社としては既に入社試験を終えていたが、社長自らが父の2年後輩の笠井常務取締役に連絡をして下さり、私のみ特別扱いで個室で就職試験を受ける手はずを整えて下さった。
幸い叔母(母の妹)が東京で仕事をしていたので、私の履歴書の提出や会社との交渉を引き受けてくれ、社長、常務という二人の強力な推薦のお陰で無事東京本社への入社が決まった。
思いがけない展開で東京への就職が決まり、その朗報を図案科科長に勇んで話したところ、「東京なんか行くの、やめっちまえ!」と他の教師たちのいる職員室で大声で怒鳴られてしまった。その上、「君の体力では都会での厳しい競争の職場環境では耐えられないし、つぶされてしまう。やめたほうがいい」と言われた。
科長は私が卒業したら自分のデザイン事務所に就職させて「キュウリのきゅうちゃん」の仕事を手伝ってくれるものと思い込んでいたのかも知れない。しかし、私には全くそんな気持ちはなく、それよりも生徒の門出を素直に喜んでくれない教師と縁が切れることに安堵(あんど)感すら覚えた。
各学科が東京や大阪への大都市への就職を何よりも望み、それを先生や生徒たちの努力の賜物として誇っていた。それ故に、図案科全体が私の東京への就職を祝ってくれると思っていただけに、科長の信じられない意外な言葉に失望し、卒業したらもう二度と学校という学校の門はくぐらないことを心ひそかに誓った。

卒業前に懸賞荒らし
卒業まで残り少なくなり、在学中のもろもろのうっぷん晴らしと社会に出てからの腕だめしのために徹底的に一般公募のデザインコンペ情報を集め、片っ端から応募した。そして、厚生省主催の人口調査統計図表ポスターコンクール優秀賞、日立製作所主催の「全国木工工作コンクール」ではユニット式植木鉢棚のデザインが最優秀作に決まり、賞品として腕時計を受賞。
日本デザインセンター原弘所長が審査委員長を務める東京都町田市の「こどもの国」のデザインコンクールに応募し、惜しくも採用を逸したが次点に選ばれた。また、上野美術館の新協美術展や県展に油彩画を出品し入選。地元新聞社に挿絵、カットがたびたび採用され、その上、学校には知られたくない高松競輪開催ポスターにも匿名で応募して数回採用された。当時5,000円の賞金は大いに学費の足しになった。
また、学校最後の行事の卒業制作発表の「工芸展」には畳一枚大の日本画「群鶴」を出品したところ売約済みになり、市内の中学校校長室に飾られた。また、地元大手の手袋製作会社社長からも新たに油彩画の制作依頼を受け、予想もしなかった良い成果をあげることができた。

ばぁばの餞別の言葉
私が東京に出発する前の日、ばぁばから「ちょっとここに座り、話があるんや」と座敷に呼ばれた。すると「小さい頃のこと覚えてるかどうか知らんけど、ばぁばはあんたには特に厳しくしたけど、こらえての(許してな)。あんたが憎くて叩いたり縄で縛ったりしたんと違うんやで。母さんから預かってる大切な子が悪い道にそれたらいかんし、可愛いさあまって叱ったんや、わかってくれるの」と真面目な顔で言われ、戸惑った。
そう言えば、私が兄と取っ組み合いのけんかをしたり、うそをついたりした時、ばぁばは本気で叱り、私が謝らなかったり反抗すると腕をつかんでぐいぐい外に連れ出し、荒縄で電信柱に縛られたことが何度かあった。
時には暗くなった寒空で「まだ謝らんのか! こんどこそ堪忍せんからの!」とばぁばは声を荒らげながら荒縄で私を電信柱にくくりつけ、それに対して私は必死に「なに〜、このクソばぁば!」と近所に聞こえる大声で反抗していた。
そんな時、ばぁばは必ず遠くから自転車の明かりが近づいて来るのを確認し、また近所の人の気配を感じながら私にお仕置きをしていたのである。そう言えば「まあ、まあ、堪忍してあげての」と必ず誰かが仲裁に入ってくれて助かったことを子供心に覚えていた。東京に旅立つ前に、ばぁばの愛情がしんみり伝わってきて、何よりも心に残るうれしい餞別の言葉になった。

〈 トロント 飛鳥童(あすか・わらべ)・記 〉

(2012年5月3日号)

【編集部より】「わらべの楽苦画記」の「第1回郷愁編」と「第2回闘病編」はアーカイブの「アートエッセー」をご覧ください。トップページ「今週のトピックス・目次」の下の「過去のトピックス」をクリックすると見られます。



 
 


 
 
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