わらべの楽苦画記(らくがき)
絵本作家/画家・飛鳥童の人生航路
第4回 サラリーマン編


学生服で出席した入社式
東京・日本橋の中心地にある日野自動車販売本社での入社式典には全国からの新入社員たちが一張羅のスーツ姿で勢揃いし、社会人になった実感が湧いてきた。でも私と他の数名が学生服姿で入社式に臨んでいたが、その当時はそれが許されていたように思う。
幸い入社早々、工場で一カ月間の新入社員教育があり、八王子の手前の日野市にある工場へ通い、実習期間中はつなぎの作業服に着替えていたので学生服での通勤も気にならなかった。
ただ問題は、私が下宿していた大田区の洗足池から工場へ通うには最寄りの駅から目蒲線で目黒駅、目黒から山手線で東京駅、東京から中央線で日野駅、そこから更にバスに乗り換えて日野工場までたどり着くのに約2時間余りかかり、往復の通勤時間に4時間以上かかることであった。しかも工場は朝8時半始業なので、それには毎朝5時半起き、6時前には家を出なければならなかった。


▲新入社員同期4人組。入社後も学生服姿で出勤(筆者は右端)。同期でも背広着用は東京出身者が多かった

工場で教育実習
教育実習では、午前中は会社概要や製造車種に関する講義、そして午後から組立工場現場での実習というスケジュールがびっしり組まれていた。初日は広い工場内で車の製造工程を見学し、翌日から我々新入社員は数班に分かれていきなり組立ラインに立たされた。
先輩から実技指導を受けながら最初は単純な作業から始まり、数日後にはスポット溶接を命じられ、防護ヘルメットをかぶって挑戦したものの、溶接機が重くて目標の接合部に焦点を合わせるのが難しく、汗だくになった。次の挑戦は空圧ボルト締め機を使ってナットのボルト締めに取り組んだが、締め過ぎてボルトの山(溝)を壊してしまい、先輩達にしばしば迷惑をかけてしまった。
工場の教育実習は想像以上の重労働で、下宿に帰った後も翌日提出するレポートをまとめたり、一カ月間が長く感じられたが、その後、本社に帰ってからの仕事に大いに役立ち、貴重な体験になった。

宣伝部にデザイナーとして配属
一カ月間工場での教育実習を終え、私は本社の宣伝部宣伝課にグラフィックデザイナーとして配属され、他に男性カメラマンと女性事務員2名が同期生として同じ部で働くことになった。
宣伝部だからデザイナー、カメラマンほかの制作スタッフは当然いるものとばかり思っていたが、我々2人が初めての採用だと分かり驚いた。大きな仕事は大手広告代理店や制作会社に外注するので、私の主な仕事は業界紙・誌向けの広告原稿の制作だった。
宣伝部には宣伝課、渉外課があり、両方の課から制作依頼がくるものの、困った時に相談する先輩もおらず、上司たちにアドバイスを受けながらぶっつけ本番の日々が続いた。


▲新聞広告用レイアウトのラフ・スケッチ


▲白衣姿で広告原稿制作中の筆者

ある日、課長から「君は、そろそろ背広にした方がいいんじゃないか? いつまでも学生気分じゃ困るからね」と言われ、はっ!とした。そう言えば、入社式以来、学生服で通していたことに気付いて赤面した。
そんな私の様子を察知した課長は「私の知り合いで映画俳優の小林旭の服を仕立てているテーラーが等々力(世田谷区)にあるので、そこに頼んでやろうか、どうだい?」と言われ、びっくり。「そんな高級テーラーは今の私の給料ではとても無理です」というと、「そんなこと分かっているよ、一度訪ねてみなさい」と言われ、返事に戸惑った。
どうやら課長の口ぶりでは、もう既に先方に連絡をしている様子だったので週末に言われるまま等々力にあるテーラーを訪ねた。すると「ああ、あなたですね。課長さんから伺っていますよ、さあどうぞ」と温厚な紳士から丁寧な応対を受けて恐縮した。店内には案の定、小林旭の格好いいスーツ姿の写真が数点、額縁入りで飾られていた。
その日は生地を選び、寸法を取り、仮縫いの日時を決めた後、「生地代を含めておいくらでしょうか?」と恐る恐る尋ねたところ、一カ月の給料分で何とかの額だった。主人はほほ笑みながら「課長さんのご紹介ですから、3回払いでいいですよ」と言ってくれたので、ほっとした。
数週間後に背広が出来上がったので取りに行き試着したが、身体にフィットする着心地の良さが気に入った。翌日、その背広を着て出社したところ、「おおぉ〜! やっと社会人になったな」と、皆から皮肉と冷やかしの言葉を浴びてしまった。
その日の午後、思いがけず課長からワインレッドのシルクのネクタイがプレゼントされて驚いた。課長の依頼で宣伝部の秘書が昼食時に高島屋で見立ててくれたらしく、私の大好きな赤いネクタイだった。課長の厚意が心に染みた。
その数日後、亡父の後輩の常務取締役営業部長がひょっこり宣伝部に現れ、「おぉ〜!増田君の面影があるなぁ!」と、声を掛けて下さり恐縮した。背広が間に合って良かった。【編集部注】あすかわらべさんの本名は「増田武」です。


▲小林旭専属のテーラーで仕立てた背広。生まれて初めての背広姿(同期のカメラマン撮影)

60円タクシーのルノーからコンテッサ開発、そして激動の時代へ
私が入社した1963年は、日野の乗用車部門はフランスのルノー公団と提携して生産していたルノー4CVから純国産車として開発した小型車コンテッサに切り替えた時期だった。
ルノー4CVは、かつて全国の国鉄(現JR)駅前の60円タクシーとして活躍した車種で、その技術を生かして開発されたのがコンテッサで、イタリアの工業デザイナー、ミケロッティにデザインを依頼した。
他社の人気車種にはトヨペットクラウン、パブリカ、日産セドリック、ダットサンブルーバード、いすゞヒルマン、富士重工スバル、プリンスグロリア(今はなきプリンス自動車)など、個性的な車が揃っていた。
その頃の自動車業界は各社とも国内の熾烈(しれつ)な競争と共に、欧米の乗用車に追いつけ追い越せを目標にしていた。アメリカではフォード社が社運をかけて、リ−・アイアコッカ(後にフォード社社長を経てライバルのクライスラー社社長にくら替えして世界を驚かせた人物)がビタミン剤をバリバリ噛みながら総指揮を執って生み出した自信作「ムスタング」が話題になっていた。
その当時のことを振り返ると、いま日本の自動車会社が海外で現地生産し、性能、販売数でアメリカのビッグ3を脅かすまで躍進することなど誰が想像しただろう。

宣伝部はトタン板の上を走るダンプトラック
ようやく仕事にも慣れ、宣伝部全体の仕事の内容や流れが分かってきたが、私には宣伝部内に一日中渦巻くゴチャゴチャ、ガヤガヤの騒音に耐えながら仕事に取り組まなければいけない職場環境にいささかの不満が募っていた。
電話の音、来客の会話のみでなく、当時コンテッサの宣伝のために日野自動車はTV番組の「水戸黄門」やラジオ番組のスポンサーになっていた。広告代理店が制作したTVコマーシャルやラジオ番組の一部を仕切りのない部内で試写、視聴するので、「皆のもの、静まれ、静まれ〜!この紋どころが目に入らぬかぁ〜!」の叫び声に、ふと仕事の手が止まりそうになる。そんな時「皆のもの、静まれ、静まれ〜!」と私の方から叫びたかったが、新入社員には言えるはずもなかった。
そんな折、宣伝部長の発案で「新入社員が毎日何を考えているのか、提案などがあれば書いて欲しい」と、毎朝日記の提出を義務づけられた。私はこの時とばかり正直に「宣伝部は人の出入りが多くて活気があり、宣伝・広報の最先端に身を置いていることが実感できる。でも、宣伝部内には私が今まで体験したことのない騒音が立ち込め、まるでトタン板の上にダンプトラックが通り過ぎるようだ」と書いた。 ところが翌朝、その日記が部長から課長の手に渡り、みんなに披露されてしまった。何らかの改善策を期待したが、誰もそんなことなど気にしておらず、一笑に付され、私一人で「これにて一件落着!」にせざるを得なかった。


▲「幻の名車」コンテッサ・クーペと筆者。東京モーターショー開幕前日

コンテッサ・クーペの誕生に立ち会う
入社2年目を迎えた頃、スポーツタイプの新しいコンテッサ1300クーペが誕生することになり、その情報が外部に漏れないようにカタログ、ポスター、TVCMなどの広告媒体が極秘裏に進められ、宣伝部内は数カ月間、緊張感が漂っていた。
そんな折、私は業界紙記者からお茶に誘われたので、近所の喫茶店に行き30分くらい世間ばなしをした。そして、会社に戻るや否や、業界紙担当の渉外課係長(元新聞記者)から突然、「今までどこへ行ってた? 誰と話してた? 何を話した?」と部屋中に聞こえるような大声で問い詰められたので驚いた。
係長は私が新聞記者に新車に関する情報を流したり、何か頼まれたのではないかを危惧(きぐ)して怒った。新車のモデル写真は見ていたが、記者から新車の話もなく、私のところまで重要書類が回ってくるよしもなく、宣伝課長の取り成しに助けられて事なきを得たが、軽率な行動だったことを反省した。
そう言えば、時に宣伝課や渉外課には他社が新車発表前の覆面状態で隠し撮りされた写真や仕様書に関するデータ情報などを売り込みに来る輩(やから)がいた。また、自動車業界を舞台にスパイ活動を描写した松本清張作「黒い試走車」の本が話題になっていた。
やがてコンテッサ・クーペ1300が発表されるや否や評判になり、晴海の「東京モーターショー」でもカーマニアの羨望(せんぼう)の的になった。でも残念なことにミケロッティのデザインが時代を先取りし過ぎたのか、量産体制に至らず、高価格が原因だったのか、わずか3年間で生産が打ち切られ、「幻のクーペ」となった。


▲同期のカメラマン(右端)と新年号広告用撮影を終えて(筆者左端)

篠山紀信に刺激を受ける
仕事の量が増えると共に、新しく社内報が創刊されることになり、私がその表紙デザインを任され、仕事の範囲も広がってきた。また、ポスターやカタログ、一般紙や雑誌広告は相変わらず外注に頼っていたが、翌年度のカレンダーをデザイン制作会社のライトパブリシティーに依頼した際、その制作に立ち会う機会に恵まれた。
最初に彼らが提出してきたアイデアスケッチには、箱根・芦ノ湖の水面を鏡に見立て、その湖上にコンテッサを浮かべたり、ダンプトラック数十台を白く塗り、30名余りのモデルを動員してオレンジ色の作業服とヘルメットを着用させて石切り場で作業をさせたり、大胆な発想に満ちていた。
会社側としてはアイデアの素晴らしさを認めたものの制作コストが掛かり過ぎるので、別案の提出を求めた。ところがアートディレクターの細谷厳氏は「我々のアイデアを受け入れて頂けないのであれば、この仕事はお断りします」とズバリ言ってのけた。結局お互いに社内会議で検討し、双方がある程度歩み寄り、大きな変更もなく話がまとまり、制作に取り掛かかった。
まず、中型トラック・レンジャーが青山通りを走行する場面から撮影が始まり、カメラマンの篠山紀信が真っ赤なトライアンフの狭い後部座席で横になり、後続トラックのモデルの運転手の表情を追いながらバシャバシャ撮り続けた。助手席のアシスタントも忙しそうにフィルムの入れ替えをしていたが、あっという間に何十本ものフィルムが山積みになっていた。
その時の篠山紀信は日大芸術学部写真学科を卒業したばかりの新人だったが、その仕事振りは今までのカメラマンにはない集中力と迫力を感じた。後に「激写の篠山紀信」として知られるようになる。

退社を決意する
外部の制作会社の仕事に立ち会うようになってから、私の心の中に迷いが生じるようになった。それは、自動車会社の宣伝部という組織の中にいては車に関する仕事ばかり、これから先もこのまま毎日同じ内容の仕事ばかりを続けていていいのだろうか? 外に出れば自由にいろんな分野の仕事に挑戦でき、もっと大きな仕事にも取り組めるのではないだろうか? 特にライトパブリシティーのカレンダー制作スタッフの仕事ぶりに接して大きな刺激を受け、それ以来、自分の気持ちを抑えきれなくなっていた。
でも、仕事に不満があるからでは退社理由にならない。ましてや私の場合は縁故就職だから、まず上司に納得してもらえるちゃんとした理由を考えなければならなかった。
数日間考えた揚げ句、課長に「実は、母の仕事にも関係あるファッションデザイナーになることを決心し、そのための勉強をしたいので会社を辞めさせていただきたい」旨を伝えた。すると課長は「君は社長の紹介で入社したのだから、まず社長にちゃんとご挨拶しなさい」と言うなり、すぐ社長秘書に電話をしてアポイントメントを取って下さった。
意を決して社長に面会し、お世話になったことに心からのお礼と、短期間で退社することになった理由とお詫びを告げたところ、「そうか、ま、自分で決めたことだから、しっかりやりなさい!」と励まされた。もう一人の恩人の常務にもお礼とお詫びのご挨拶に伺い、そこでも励ましを受けて恐縮した。
短期間ながらも宣伝部は課長を中心に、他の部課にはない和気あいあいとした雰囲気があった。昼食時にはすぐ斜め向かいの丸善、その前の高島屋などへよく出掛けた。ロケハンで遠出したり、東名高速道路開通前に特別許可をもらって撮影したり、修善寺への社員旅行、退社後のボーリング、飲み会、忘年会、新年会など、たくさんの思い出が出来た。
わずか一年半の勤務だったが、その後も長く宣伝部の先輩たちとはつながり、先輩たち8人がトロントまで会いに来てくれたりした。今も私の訪日時には必ず東京で何人かが集まってくれて、旧交を温めている。


▲筆者の訪日時には日野自動車宣伝課の先輩たちが歓迎会を催してくれた(前列右端が元課長の桑原常務、その左が係長、筆者、左端は秘書)

〈 トロント 飛鳥童(あすか・わらべ)・記 〉

【編集部より】「わらべの楽苦画記」の「第1回郷愁編」と「第2回闘病編」「第3回工芸高校編」はアーカイブの「アートエッセー」をご覧ください。トップページ「今週のトピックス・目次」の下の「過去のトピックス」をクリックすると見られます。

(2012年6月7日号)

 
 


 
 
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