【ひと】

春の叙勲で旭日双光章を受章した
林光夫さん


平成24年度日本政府春の叙勲で旭日双光章を受章したバンクーバーの林光夫さんを、改めてご紹介したい。


▲林光夫・恵美子夫妻。「今までこのようにやってこられたのも、恵美子の理解と協力のおかげです」と語る林光夫さん


▲6月6日、在バンクーバー日本国総領事公邸で行われた叙勲伝達式にて。林光夫氏と伊藤秀樹総領事(右)

林さんは1934年(昭和9年)7月7日、長野県飯田市駄科に生まれる。77歳。
いつも姿勢を正した穏和な紳士であるが、若い頃からのスポーツマンで野球、水泳、サッカー、ラグビー、バレーボール、バスケットボール、陸上などに明け暮れる活発な青年であったという。1958年3月、中央大学経済学部を卒業後、知人の紹介でその年の暮れにニューヨークに渡った。


▲2009年7月、天皇皇后両陛下カナダご訪問でバンクーバーの日系プレースを見学された際、林光夫さん(左)は先導役として両陛下をご案内する栄誉にあずかった

大きな夢をいだいての渡米であったが、紹介された会社は1年後に解散し、現実とのギャップも大きく、雑貨輸入商などの手伝いなど転職の繰り返しで、生活も厳しかったという。その時期に奥様の恵美子さんとの出会いがあり、その上、運よく結婚後すぐに当時の日本鋼管(NKK・現在JFEスチール)の現地採用が決まった。

サラリーマン生活で時間の余裕もできた林さんはニューヨーク大学大学院の夜学にも通い、4年半かけて経営修士課程を卒業した。卒業論文の内容の一部が、後日、米誌「Business Week」に紹介されている。

奥様の恵美子さんはアメリカ生まれの日本育ち。後にアメリカに留学し、卒業後はNHK のニューヨーク総局で働いていた。英語が堪能であったから、この頃から林さんのよきパートナーとして尽くしていた。

林さんはその後、転勤で東京本社、バンクーバー、ニューヨークでNKK社員として活躍。現役時代の北米での生活は25年続いた。1993年に退職し、やっと自由な時間ができ、退職後の人生を楽しもうとバンクーバーに移住した。

バンクーバーでは1975年ごろから日系カナダ人カルチャーセンターを作ろうという話が持ち上がり、具体的に動き出していた。しかし話が煮詰まっても、資金面の話になるとなんとなく断ち切れてしまう状態が繰り返されていたのだった。そんな矢先にリドレス運動が起こり、1992年に日系補償基金より日系プレースプロジェクトへ300万ドルの資金交付が認可された。目的達成への道が開かれて募金活動が正式にスタートした時期であった。


▲2005年、日加ヘルスケア協会設立後の集会で、現在理事長の田中朝絵医師(左)と林光夫副理事

移住後、数年は計画通り世界旅行をしたりゴルフを楽しむ生活であったが、日系プレースの創設企画者達から、日系プレース建設のための諸計画や募金活動に協力してほしいとの依頼が来たのである。どんなことでもできる範囲で手伝いたいと考えていた林さんは、申し出を快く引き受け、プロジェクトにたずさわって日本関係の募金委員長としての活動が始まった。この当時に日系文化センター建設資金の予算は土地代を除いても750万ドルという莫大な金額であった。

まずコミュニティーでの募金キャンペーンをスタートさせて、続いて日本でのキャンペーンも開始した。日本には独特の取引のやり方があるが、日本のノウハウを十分に心得ていて、かつ北米で多くの体験を持つ林さんだからこそ、うってつけの人材であった。 また、林さん自身が1989年に胃がんの摘出手術を受け、術後、肝機能障害も完治できたことで、健康に感謝し余命をどう生きようかと考えていた時期でもあった。

林さんをはじめ多くのボランティアの人たちの活動により日系プレースは2002年に完成した。 林さんは「このようなプロジェクトに、参加協力でき、運営にも奉仕できることは、私たち夫婦にとって大変光栄なことでした」と語っている。


▲2009年1月7日、バンクーバーの日系コミュニティー合同新年会で実行委員会副委員長として活躍した林光夫さん(左端)、(右へ)西田恒夫大使(当時)夫妻、林恵美子夫人

日系プレースはコミュニティー文化センター・博物館としての機能と、新さくら荘(シニア向けアパート)、日系ホーム(ケア付き住宅)が同一敷地内に存在する非常に特殊な形式で、北米でも誇るべきモデルケースとなっている。
現在、林さんは日系文化センター・博物館会長、理事として活躍。


▲1955年8月、長野県仙丈岳(3034メートル)にて。スポーツ万能で登山大好きの林さんは高校の同級生と毎年、年2回ほど山に登った(手前が林さん)

2004年に設立された日加ヘルスケア協会でも、創立者の一人として活躍し、現在も中心となって奉仕活動を行っている。日系コミュニティーに日本語を話す医師が減り、英語があまりできない人達が日本語の通じる医師を求める声が多かったことを知り1990年代後半から知人の二世の医者に相談しながら対応を検討した。
日系の診療所の設立も考えたが、医師の数や資金不足から設立は断念し、現在はセミナーの開催や、医学記事を現地の日本語紙誌に掲載することを開始。十数名の医学・医療の専門家や、ボランティアの協力により、年数回の医療・医学セミナーを行ったり、日本語が通じる医師や医療サービスのネットワークの構築、カナダで生活する上に必要な医療情報の提供などの活動を続けている。
日系センター関係者は、「林さんは時間、労働、私財までも投じて献身的に大きな働きをしています。自分のビジョン、意見をはっきり持っているにもかかわらず、押し付けがましいところもなく、みんなで議論して決めているし、役員には二世、三世の人も多く、新移住者との考え方の違いでまとめることが難しいこともあるのですが、彼はその中に溶け込んで、両方の立場をうまくまとめています」と話している。


▲ニューヨーク大学大学院卒業記念写真(1967年9月)

奥様の恵美子さんもよき仕事のパートナーとして忘れてはならない存在で、林さんは「このような社会貢献ができるのも、妻恵美子の深い理解と協力のお蔭であり、感謝しています」といつも語っている。

林さんは自分の時間や私財を惜しみなく使えるという恵まれた環境もあったと思うが、 この素晴らしい奉仕の精神は彼の成長期における環境によってはぐくまれた面も大きいと、本人も話している。


▲医師だった恵美子夫人の父親の紹介でニューヨークを訪れた女優・有馬稲子さん(右)と・・・。林光夫さんとピアノを弾く恵美子夫人

林さん一家はクリスチャンで、もの心ついた頃から家族で教会に通っていた。父親が村長になった時にも、村のために本物のボランティアに徹するため、他の仕事をやめて、少ない給料を補うために田畑を手放して子供たちの教育費や生活費に充てていた。その両親の後姿を見て育ったからという。

林さんも活発な男の子で、遊びたい盛りには毎週教会へ行くことへの反発もあったが、大人になってから大きな問題にぶつかり、自分では何でも出来ると思っていたのに、神の守りの中にいたからこそやってこれたのだということを悟ったという。

ちょうど時間がとれたので、日本の人間ドックの検査を受けられたことによって胃がんが発見されたり、この検査も3カ月も待たなければならなかったのに、ひょんなことからすぐ検査を受けることができたりで、この時も自分は神の摂理の中、流れの中に生かされていることを切実に感じ、この時点で自分の人生を神に預けたと決意をかたくした。「今の生活は神から与えられた使命の流れの中の恵みと思っています」と。
林さんの謙虚な姿勢もこのような背景からはぐくまれたものであろう。

現在は日系文化センター・博物館会長、理事の他、ブリティッシュコロンビア日加協会理事、茶道裏千家淡交会バンクーバー協会会長、バンクーバー日系人合同教会日語部役員会役員、バンクーバー白門会名誉会長、日系コミュニティー合同新年会実行委員会副委員長などとして活躍し、多忙な日々を送っている。 

2009年7月には、天皇陛下、皇后陛下がカナダご来訪の折、日系プレースもご訪問になり、林さんが先導役として、両陛下をご案内する栄光ある役目も果たしている。
2007年、外務大臣賞受賞。

〈 妹尾 翠・記 〉

(2012年6月21日号)

 
 


 
 
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