わらべの楽苦画記(らくがき)

絵本作家/画家・飛鳥童の人生航路

第5回  独立宣言編


セツ・モードセミナーに通う
自動車会社の宣伝部という組織の中で限られた仕事を続けていくことに耐えられなくなり、「ファッション・デザイナーになります」という口実で退社したものの、どうやって生計を立てていくかということなど全く念頭になかった。
何とかなるだろうという気持ちで、とにかくまずファッション・イラストから始めることにした。当時、イラストレーター、デザイナー、評論家、エッセイストとして活躍していた長沢節(ながさわ・せつ)塾長の「セツ・モードセミナー」の夜の部に通い、日中は仕事探しに時間を割いたが、なかなか仕事の当てはなかった。セミナーに通ってくる生徒たちも日中はアルバイトや会社勤めをしながら、将来のファッション・デザイナーを夢見て頑張っている個性的な若者たちであふれていた。
やがてファッション・デザイナーになるには単にイラストが上手く描けても、裁断、縫製のみでなくテキスタイルを含めたトータルな知識、経験がなければ一人前のデザイナーにはなれないことを悟った。
本当に自分自身がやりたいのは何だろう? そんなことを考えながら不安定な生活が続き、あっという間に大みそかと正月を迎えた。日野自動車退社を契機に上目黒に下宿先を見つけて叔母のアパートから独立したが、1年半のサラリーマン生活では蓄えはなく、その年の正月は外に出ないで炬燵(こたつ)の中で過ごした。やがてアパート代も払えなくなる。こんな事態になるのであれば、あと2カ月辛抱して退職金を頂いてから会社を辞めればよかったと後悔したが、後の祭りであった。


▲セツ・モードセミナー時代のファッション・イラストレーション

売り込み開始
毎日の新聞を唯一の情報源に仕事探しに奔走したが、いずれも求人広告ばかりでデザイン関係の仕事は皆無であった。仕方なく広告代理店やデザイン会社を訪ねて仕事を求め歩いている間に、少しずつチラシ広告や版下制作などの細かな仕事を受けることができるようになった。
そんなある日、日野時代の同期のカメラマンと目黒駅でばったり出会った。久し振りに駅前の飲み屋で酒を酌み交わしながら「思っていたより、現実は厳しい」と、つい本音を漏らしてしまった。
それから数週間後、日野自動車宣伝部から呼び出しの連絡があった。何の用事だろう? あれこれ思考を巡らせながら宣伝部を訪ねた。「どうだい、ファッション・デザイナーの修業は?」と、課長の笑みを浮かべた問いかけに何と返答したらよいか困っていたところ、「どうだい、うちの広告原稿の仕事をやらないか? 少しは生活費の足しになるだろう」と、思いがけない申し出を受けた。どうやら同期のカメラマンから私の苦境を知らされていたようで、ありがたいことに宣伝部から広告原稿の仕事を受けることになった。

デザイン会社「ADハウス」設立
あちこちの下請けの仕事をこなしながら細々と生活を続けているうちに半年が過ぎた。そんな時、高校時代の同級生で千葉県の小型モーター製造会社宣伝課に就職していた友人から「会いたい」と連絡が入った。
卒業以来久し振りの再会だったが、彼も大きな組織の中に縛られての仕事に耐えられずに会社を辞めたばかりで、「一緒に仕事をしないか?」という誘いだった。彼は隣の愛媛県出身で学生時代から下宿生活を余儀なくされ、寂しくなると私の家へよく遊びに来ていた。
彼はクラスの中で成績は良かったが協調性に欠け、正義感が強く、けんか早かったので先生達ともよく問題を起こしていた。彼も私も学生時代から学校や先生に対する不信感から共有感情が芽生え、よく一緒に行動をとっていた。社会に出ても会社を辞めた理由や時期が同じだったので不思議な気がした。
私も一人よりは二人の方が心強いので、話はすぐにまとまった。事務所を構える資金もなく、当分の間はお互いの下宿先を共同利用しながら、とりあえずデザイン会社「ADハウス」という名前を考えて名刺を作り、弱冠21歳で独立した。

大きな仕事が入ってきたものの・・・
私一人の時よりも、友人と二人での売り込みは行動範囲が広がり、少しずつ仕事は増えていった。そして、我々の売り込みの熱意が中堅総合広告代理店オリオン広告社(以下エージェント)のテレビ、ラジオ制作担当者に認められて、いきなり「TVコマーシャルの仕事をやってみないか」とのお誘いを受けた。 クライアントのガスライターのマルマンが、日本初のカタログ販売「『動くデパート』ワイングラスから飛行機まで」を新事業として展開することになり、そのためのTVコマーシャルの企画、制作の仕事だった。
当時、マルマンはTBSテレビ局で古い名作映画を上映する「マルマン深夜劇場」の番組で知られ、コマーシャルはその番組で流される予定だった。他の広告代理店4社との競合なので、全く経験のない我々は「駄目でもともと、当たって砕けろ」の気持ちで挑むしかなかった。
ありがたいことにエージェントの担当者から絵コンテ用紙(数秒毎のコマ割りの枠内に絵、ナレーション、音楽などを書き込む用紙)の提供や、基本的なアドバイスを受けることができた。我々はアニメーションで勝負することにし、キャラクター作りにこだわり、時間をかけて何百枚ものラフスケッチを描きながら、ストーリー作りも同時進行させた。とにかくこの仕事に集中してパートナーと私がそれぞれ2種類のキャラクターを描き上げ、ストーリーは一つに絞り、何とか締め切りに間に合わせて提出することができた。 しばらくしてオリオン社の担当者から、「君たちのアニメーション案が採用されそうだ。キャラクターはいいが、ストーリーにもっとインパクトが欲しいので熟考してくれないか」との思いがけない朗報が入ってきた。後で分かったことだが、他の4社のプレゼンはすべて有名俳優などを起用する実写ばかりで、我々のアニメーション案が新鮮だった。 当時、壽屋(現・サントリー)トリスウイスキーのコマーシャルが山口瞳、開高健(二人共、後に人気作家となる)、柳原良平のサントリー宣伝部3人組のアニメーションが人気を博していたので、そんな時流が我々に味方をしてくれたのかも知れない。


▲マルマンのTVコマーシャルに使用される予定だったイラスト・キャラクター

まず第一関門を突破したものの、ストーリーの書き直しに難渋し、夜を徹してエージェントに提出したが何度も突き返された。揚げ句の果て、やっとOKが出たものの、今度はクライアント側からのクレームが入り、原稿の練り直しが続いた。数日後にようやく両社からGOサインを得た時には、2人とも睡眠不足ですっかり思考能力を失うほどに神経をすり減らしていた。
その後、数週間たち、そろそろ制作に取り掛かろうかという段になって信じられない情報が入ってきた。クライアントが新しい事業で負債を抱え、「動くデパート」のプロジェクトがすべて白紙になってしまったのだ。
すでに電話帳ほどの分厚いカタログを制作し、数十万部の印刷をしていた。そのカタログには通信販売で購入できるワイングラスから飛行機までのあらゆる商品がびっしり紹介され、日本に新しい消費革命ブームを巻き起こす筋書きだった。でも、当時の日本人は実際に商品を手にして確認しなければ、お金を払って商品を買う習慣はなく、ましてや通信販売で高額商品を購入するとなると尚更である。
その頃、アメリカでは Sears が既にカタログ通信販売で成功を収めていたが、大陸アメリカと島国日本のマーケットと消費者心理の違いなのか、時期尚早だったのか、残念ながら成功しなかった。全力投球で大きな広告代理店4社に打ち勝ったものの、揚げ句の果てにプロジェクトがキャンセルになり、2カ月余りの間の我々の報酬は全くの無であった。この怒りをどこにぶつければよいのか、再び厳しい現実に直面した。


▲マルマンの広告原稿用イラスト試案

タレントのスカウト業に冷や汗
マルマンのプロジェクトは残念ながら実らなかったが、数カ月後にエージェント担当者から、「義父(医者)が出資して新しい広告会社「(株)中公企画」を立ち上げたいと思っている。とりあえずあなた達2人に任せてスタートさせたいのだが、協力してくれないか」との思いがけない申し出を受けた。
責任の重さを感じたが、文無しの我々には渡りに船だったので引き受けることにし、結局、我々の立ち上げた「ADハウス」は「中公企画」に吸収されることになった。新しい会社の事務所は神田神保町交差点近くの路地の一角にある古びた木造建築の二階に構えた。義父が社長、エージェント担当者が相談役としてエージェントの仕事を流すという約束を取り付け、我々2人が営業兼制作責任者に、そして事務兼電話番の女性も加わり、3人でまた新たなスタートを切った。

事務所を開設して間もなく、相談役からエージェントの仕事としてタレント発掘の仕事が舞い込んできた。仕事の依頼はキリスト教福音ラジオ番組「ルーテルアワー」のホスト関谷五十二氏の相手役を探すことであった。しかもスカウト後のオーディションを経て最終候補者選考までわずか2週間の猶予しかなかった。
我々には全く経験がないタレント探しが初仕事となり戸惑ったが、どんな条件の仕事であれ事務所を構えた以上、未知の分野の仕事にも積極的に取り組まざるを得なかった。タレント探しといってもどこから始めればよいのか、皆目見当がつかぬまま、とにかく2人で手分けして行動に移した。
私は女学生たちが多く利用する御茶ノ水駅に目標を定め、改札口から出てくる若い女性たちに手当たり次第に声を掛けてスカウトを始めた。事情を説明しながら祈るような気持ちで数人に名刺を差し出したところ「名刺なんていくらでも印刷できるでしょ!」と、いきなり不審者扱いされてしまった。それでもめげずにまた数人に声をかけたが、けげんな顔で無視されるばかりで、2時間余り粘っても全く成果が得られなかった。
とにかく、どんなことがあってもオーディションに間に合わせねばならない。方針転換し、御茶ノ水駅周辺の大学と専門学校を当たることにした。
まず服飾専門学校を訪ねて事情を話したところ、受付の事務員が授業中にもかかわらず希望者を募ってくれ、休憩時間中に2人の応募希望者が現れた。その足で文化学院を訪ねると、学生主任教授を紹介され、事情を説明したところ「ギャラ、契約期間、その他の条件は?」と矢継ぎばやに質問を受けた。
私には仕事内容以外の条件は何も知らされていなかったので、返答に困っていると、教授は「あなた、ねぇ〜、人に依頼ごとするのに肝心な条件も提示しないで、大切な生徒を紹介できますか?」と、他の教授たちにも聞こえるような厳しい言葉。その口調におたおたしてしまった。
そんな私の様子を見透かすように「社長か誰か責任者を呼びなさいよ!」と、いきなり受話器を渡されたので焦った。責任者は私ですとも言えず、仕方なく思い切って相談役のエージェントに電話をした。「社長、実はラジオ番組のタレントの件で」と言ったところ、「えっ、なに! 社長?」と、前触れもなく突然の電話に相談役は戸惑っていた様子だったが、事情を察してくれ、教授に詳細を話してくれたので急場をしのぐことができた。
同学院を出た後、どこかで見覚えのある教授だったので改めて名刺を確認したところ、マスメディアなどで歯に衣着せぬ評論で活躍していた戸川エマ女史だった。そのことを知り、再び「ど〜っ」と冷や汗が出てきた。どこの馬の骨か分からぬ若造に厳しさを持って応対して下さった女史のお陰様で、同学院卒業生で当時NHK「あなたが選ぶのど自慢」のTV番組で司会・宮田輝(みやた・てる)のアシスタントとして「合格おめでとうございます!」と、歯切れのよい爽やかな声で入賞者にトロフィーを渡していた女性がオーディションなしで文句なしに採用された。

タフガイ「古さん」との出会い
その後もテレビ、ラジオ関係の依頼が多く、請け負った仕事は何とか無難に達成できたが、もともと電波関係は我々の専門ではなく、仕事も途切れがちになり、広告業界に全く素人の社長も利益計上が見込めない会社を維持継続していく余裕もなくなり、「中公企画」は長く続かなかった。
また、振り出しに戻ってしまったが、独立後の数年間で広告業界の知己も少しは増えていた。その中の一人で博報堂のカメラマンから「俺の親友、“古さん”(古沢總一郎)が仕事の相棒を探しているが、どうだ」と友人を紹介された。
古さんも東京写真短期大学を卒業してプロの道を志していたが、あきらめて自立し、東京12チャンネルの番組テロップ(テレビ画面に出演者名やニュースを流す活字)の仕事を始めたばかりだった。早速、我々は四谷三丁目にある古さんの仕事場を訪ねた。話し合っている間に、彼もいろんな仕事を経験してきた頑張り屋だったので意気投合し、翌日から我々が合流してテロップの仕事を手伝うことになった。
古さんの仕事場奥には大きなモリサワ写植機がデ〜ンと鎮座していた。デザイナーが広告原稿制作で使用するコピーやキャッチフレーズなどは写植(写真植字)を使用していたので、私もよくお世話になっていた機械だった。

とりあえず3人の役割は、古さんが社長、営業兼写植のオペレーター、私が打ち上がった植字フィルムを暗室で現像、私の相棒が東京12チャンネルからの依頼原稿を受け取り、完成原稿を届ける外回りという態勢でスタートした。我々よりも5歳先輩の古さんの奮闘で、仕事も増えて順風満帆な滑り出しだった。この調子なら将来もっと広い部屋に移り、人員を増やしてデザイン関係の仕事を復活させようと、毛利元就の「3本の矢」を念頭に描いていた。
ところが半年余りたった頃、何の前ぶれもなく東京12チャンネルからの仕事が途絶えてしまった。古さんはすぐ東京12チャンネルに出掛けて担当者に直談判したが、要領を得なかった。納得できなかった古さんはあちこち手を尽くして調べたところ、担当者が独断で発注先を変え、それも彼の不倫相手が経営する会社だといううわさを入手した。
我々は担当者の上司に掛け合って会社内で問題にすることを考えたが、うわさが真実かどうか、上司も絡(から)んでいる可能性もあり、たとえ問題が解決しても再び仕事の発注が得られるかどうかの保証はなく、あきらめざるを得なかった。
主な収入源が絶たれてしまい、今後どうするかを3人で話し合った結果、私の相棒は辞めて一人になり、私は古さんと続けて仕事をすることにした。その後、古さんの営業で、レストラン開店ポスターのデザイン、TVの配電盤図面のトレース、温泉旅館やゴルフ場のパンフレット、イラストなどいろんな仕事を試みたが、やがて2人ともこれ以上仕事を続けていくことに限界を感じるようになった。


▲東京・銀座のレストランのロゴと開店用ポスターのデザイン制作

そんな時、古さんは突然「また、ラーメンの屋台でもやるか」と、言い出した。また、というのは、彼は少し前までラーメンの屋台を自分で作り、日中は豚骨をグツグツ煮てスープの準備をし、夕方から屋台を引いて出掛け、深夜に帰宅という生活を続けながら屋台のラーメンだけで資金を稼ぎ出し、百数十万円もする写植の機械を購入していたのだ。
古さんの話によると、最初は四谷三丁目からほど近い新宿周辺に屋台を構えていたが、チンピラとショバ代で問題になり、その後、方向転換し、四谷駅を通って霞が関の高層ビル群の一角に屋台を移した。彼が目を付けたのは、霞が関近辺は夜9時以降になると人影が絶えて静まり返っているが、きっと夜遅くまで残業している役人たちがいるに違いない、と自分の勘に賭けていた。
最初の数週間は客も少なく閑散としていたが、やがてクチコミで広がり、スーツ姿の残業組が入れ代わり立ち代わりやって来るようになり、「古さんラーメン」はまるで霞が関御用達のごとく繁盛していた。

ところがある夜、タバコをくわえ、だぶだぶのスーツを着たお兄さんたちがやって来て屋台を取り囲んだ。古さんは新宿での苦い経験があったので、彼らが何者かピンときた。「あんたたちの用件は分かってる、親分に話があるので、合わせてくれないか」と先手を打った。その一言で彼らは引き揚げ、その夜は何事もなく収まり、後日、古さんは指定された親分のいる場所へ出向いた。 5、6人の若い衆に囲まれた親分との対面の席で、古さんは「きょうは親分さんに、お聞きしたいことがあってやって参りました。私自身で開拓した霞が関も親分さんちの縄張りなんでしょうか」と問いただした。しばらく腕組みをしていた親分は、「お前の言い分はそれだけか? よし、分かった。若いモンに言っとく」と、思いがけずすんなり聞き入れてもらった。その上、帰り際には親分から「お前の度胸、気に入った。なんでも困ったことがあったら、また来いや」と言われたという。

筋を通す強固な意志の持ち主、古さんらしい武勇伝だったが、彼も、親分に会う際にはそれなりの覚悟をしていたので、体中が震えていたという。ただ、一度でもチンピラに弱味を見せたら、もうおしまいだから、親分に合うことしか頭になかったという。チンピラたちがおとなしく引き下がって親分に引き合わせたのは、直接ショバ代の交渉をするものと思っていたからだった。
それにしても、いざ勝負という時の古さんの決断、判断力には比類ないものを感じていたので、もう少し彼とは一緒に仕事をしたかったが、私には屋台ラーメンを手伝うことだけはできなかった。そんなわけで1年余り続いた四谷三丁目の仕事場もやむなく整理し、古さんは写植の機械を売り払ってそれを資金に故郷秋田県大館市へ帰って新しい事業を始めることにし、私は東京に残って独立独歩で再出発することにした。


▲マルマンTVコマーシャル用のキャラクター。たれ目のダンゴ鼻がその後の仕事に役立つ

それから2年ほどたったある朝、運送屋の「荷物で〜す!」という大きな声に起こされた。慌てて外に出ると、米俵を右肩に担いだお兄さんが立っていたので驚いた。発送人は大館の古さんだった。翌日、古さんからの手紙が届き、取れ立ての秋田新米の米俵を送ってくれた理由が分かった。手紙には「ご無沙汰している。私もようやく故郷での事業が軌道に乗り、人数も増えてきたので君にどうしても手伝ってほしい」という内容だった。
その頃、私も出版社のイラストの仕事で忙しくなっていたので、彼の申し出に躊躇(ちゅうちょ)した。でも、米俵一俵の恩義もあり、電話で断ることは出来なかったので大館へ出掛けた。そして、彼の仕事場に案内されたが、その現場に立った瞬間から強烈なアンモニアで目がしょぼしょぼ、涙が出てくるし、息ができないほどの悪臭で、数分もいられない劣悪な環境に驚いた。
彼が帰郷後に始めた仕事は、古い民家の汲み取り便所を浄化槽に取り替える仕事で、今時の若者が最も嫌がる、汚い、きつい、危険、つまり「3K」の仕事だった。
そして、大手浄化槽メーカーと特約店契約を結んで事業を拡張しても、古さんは若い従業員に率先して、便所に潜り、穴を掘り、見本を示していた。「誰もやらない仕事にこそビジネスの可能性大」という古さん流ビジネス哲学は故郷大館で見事に開花していた。
彼は私に顧客の折衝、若い従業員の教育などを任せ、その上、秋田美人のお嫁さんも世話するから、という彼らしい用意周到ぶりの条件にいささか参ってしまった。でも、私には彼が敷いたビジネス路線を歩むより、私はあくまでもクリエーティブ路線から脱線することはできなかったので、彼の厚意を謝し、丁重にお断りしたところ、彼もそれを理解してくれた。その夜は古さんと久し振りに、きりたんぽ、箒の実(ほうきのみ=山菜)、地酒で夜遅くまで杯を酌み交わした。


▲秋田の古さん宅を訪ねて、家族の皆さんと。(前列左から)古さんこと古沢總一郎さん、筆者、奥さん、後列は息子。右が長男・龍之介さん

古さんとはその後も、大館へ行ったり、東京へ出て来たりの親しい付き合いが続いたが、彼一人で始めた浄化槽ビジネスも、水道、排水工事関連へと事業展開して大成功を収めた。結婚して赤ん坊が生まれた際、「長男を龍之介と命名しました」と、可愛い写真が同封されてきた。古さんも長男に「侍(さむらい)の魂」を持ってほしいと願ったのだろうか。
そんなタフガイだった彼も若い頃の無理がたたったのか、10数年前に亡くなった。長男が彼の仕事を受け継ぎ頑張っているが、その長男と今もお付き合いできるのが何よりうれしい。

〈 トロント 飛鳥童(あすか・わらべ)・記 〉

【編集部より】「わらべの楽苦画記」の「第1回・郷愁編」「第2回・闘病編」「第3回・工芸高校編」「第4回・サラリーマン編」はアーカイブの「アートエッセー」をご覧ください。トップページ「今週のトピックス・目次」の下の「過去のトピックス」をクリックすると見られます。

(2012年7月5日号)

 
 


 
 
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