わらべの楽苦画記(らくがき)

絵本作家/画家・飛鳥童の人生航路

第6回 人生は一幕の場・編



▲飛鳥童(あすか・わらべ)さん

パスポートのいらない海外旅行
実力も経験もないのに弱冠21歳で独立し、いろんな仕事に挑戦したが、いずれも長く続かず、己(おのれ)の無能さを痛感した。学生時代のコンペ荒らしで多くの賞を受賞したが、そんなもの社会に出れば競争の激しい東京では何の役にも立たないことを悟った。
振り返ってみると、いずれの仕事も私自身の過ちや失敗によるものではなく、素晴らしい人たちと出会った。要するに自分自身の努力がまだまだ足りないことに気付き、また学生時代を思い出して絵を描きたくなった。
そんな時、渋谷駅構内で「第一回働く青少年の美術展」(ユネスコ美術教育連盟主催、文部省後援)の公募ポスターがふと目に入った。上位入賞者3名が副賞として海外旅行に招待されることに魅せられた。それが応募の動機だった。
久し振りに油絵具箱を引っ張り出し、10号F(55 cm×46cm)のキャンバスに向かい、高校時代に描き残していた故郷・讃岐(さぬき)のスケッチを元に、気の赴くままに3週間余り無心に筆を持ち、風景画を描き、締め切りギリギリで何とか搬入に間に合った。
数週間たち、公募展発表のことなど忘れかけていた頃、「厳選なる審査の結果、貴方の作品が文部大臣賞に選ばれました」との朗報が速達便で届けられた。「やったぁ〜!」と、一人大声で狂喜した。日本全国から800点余りの応募数の中から入選100点、その中からユネスコ美術教育連盟賞、文部大臣賞、最優秀賞の上位3人に選出されたのである。
入選作品展覧会は東京・池袋の東武百貨店で開催され、大勢の関係者、出品者がオープニングセレモニーに出席。入賞者3名が表彰され、マスメディアからのインタビューを受け、夕方のTVニュースで報道された。
展覧会終了後しばらくたって楽しみにしていた海外旅行への招待状が届いた。ところがその通知は、「諸々の事情により、今回は海外旅行をキャンセルせざるを得なくなり、止む無く大島旅行に変更になりました」との信じられないような内容だった。その上、大島旅行は飛行機ではなく東京・浜松町の竹芝桟橋からの船旅だと分かり、更にガックリ。ユネスコ主催、政府関係後援の公募展にこんなことがあっていいのだろうか。そう言えば応募要項には海外旅行先については何も触れていなかった。よく考えれば大島も海の外、パスポートの要らない海外旅行になった。

出版社からの仕事が舞い込む
大島海外旅行から帰ると、留守中の郵便物の中に一通の出版社からの手紙が届いていた。
その手紙は「貴方の作品を池袋東武百貨店で拝見しました。つきましては、弊社の文庫本表紙絵の制作を依頼したく、早急にご連絡願います。ルック社・編集長」との内容だった。早速、その日の夕方に出版社に電話連絡をしたところ、編集長と直接話ができ「明日にでも作品見本を持って来てほしい」と言われ、すぐにアポが取れた。
翌朝、有楽町駅前のそごう百貨店(現在ビックカメラ)から数ブロック先の丸の内・新国際ビル内の出版社を訪ねた。大きなビル内の小さな出版社に驚き、大柄な編集長の大声にも驚かされた。
編集長は私が持参した作品見本にしばらくの間、目を通し、マルマンのTVコマーシャルで実らなかったアニメ・キャラクターに目を止め、「よし、これでいこう!」と言うなり、「一週間以内にこの文章の表紙絵と挿絵を描き上げてほしい」と、いきなりドサッとゲラ刷り原稿の束を渡された。
私の意向などお構いなく「じゃ、よろしく!」と言うなり、ほかの仕事に取り掛かっていた。私も「じゃ、失礼します」と部屋を出ようとすると、「お前、デザインも出来るんだな、そっちの仕事も頼むかもしれないぞ!」と言われた。
初対面でいきなり「お前」呼ばわりされたが、親しさなのか、性格なのか、ともあれ作品が気に入られたことは確かだった。帰りの山手線車中で「展覧会の入賞作品は写実風景画なのに、なぜアニメ・キャラクターを選んだのだろう?」不思議に思った。

藤本義一氏との出会い
下宿に帰り、改めて編集長から渡された原稿「骨までいただき」に目を通し、作者が当時、夜の人気番組「11 PM」大阪(読売テレビ)のホスト・藤本義一(ふじもと・ぎいち)氏だと分かり、緊張感を覚えた。この番組は関西、関東で一日おきに全国放映され、東京(日本テレビ)のホストは「シャバダバダ・シャバダバダ」のオープニング・スキャットで、ジャズ評論家、競馬ファンにも人気の大橋巨泉氏(OKギフトショップ経営者)で、藤本氏とは東西で人気を二分していた。
「骨までいただき」の物語は、ペテン師が7人の女性を手玉に、次から次へと巧みにだましていく様が関西弁の軽妙洒脱なタッチで描かれ、TBSテレビで放映されたドラマの脚本を元に一冊の本にまとめたものだった。
テレビ番組では主人公のペテン師・藤田まことを取り巻く女性陣に、朝丘雪路、三条美紀、ロミ山田、北あけみ、北川町子、薗佳也子、茅島成美、そして、ペテン師の助っ人として花沢徳衛が加わった人気ドラマだった。
原稿に目を通している間に、男と女の「色恋、愛憎、確執」をいかに表現すればよいのか、大きなプレッシャーがのしかかってきた。でも、原稿に何度も目を通し、いざ制作に取り掛かると、物語の面白さにアニメ・キャラクターがすんなり呼応してくれ、最初の本の挿絵の仕事であるにもかかわらず、難なく、修正もなく、一発でOKになった。写実画ではなく、アニメ・キャラクターを選んでくれた編集長の感性に救われた。


▲藤本義一氏の処女出版「骨までいただき」の表紙絵とデザイン

その当時、藤本義一氏は「11 PM」の番組はじめ、東宝映画「貸間あり」(川島雄三監督)や「駅前シリーズ」の脚本家として知られていたが、「骨までいただき」は処女出版だった。私にとっても出版物に自分の名前が表紙絵、挿絵画家として印刷されたのは初めてだった。
「骨までいただき」が出版されてしばらくして、東京・有楽町の旭屋書店で出版記念サイン会が催され、私も編集長に同行した。藤本氏はテレビ番組のホストとして知名度もあり、その上サプライズで番組相手役の安藤孝子さん(元京都祇園舞妓)を同伴して現れたので、ランチタイムで通りがかりのサラリーマン達も加わり、書店は長蛇の列ができてサイン会は大成功だった。 夕方、編集長と共に藤本、安藤両氏を東京駅までお送りした際、編集長から「義一っちゃんに本の挿絵でもプレゼントしたらどうだ」と言われていたので、表紙絵を差し上げたところ、すごく喜ばれた。すぐそばにいた安藤孝子さんからも「うちにも、なんか描いて欲しいわぁ」と言われたが、返事に困った。


▲「人生は一場の幕 華やかに舞え」──藤本義一氏から展覧会場に届いた色紙


▲藤本義一氏の肉筆メッセージ

そんな藤本義一氏との出会いがご縁で、数年後に私の故郷、四国高松の高松三越で初めての個展が開催された際、色紙と共に肉筆のメッセージが届いた。編集長は展覧会のオープニングレセプションのためにわざわざ東京から駆け付け、スピーチをしてくれた。
その際、藤本氏に連絡をして色紙とメッセージを手配してくれたことが分かり、編集長の心遣いがありがたかった。
展覧会を終えた後、どうしても藤本氏に直接お礼を言いたくなり、高松から東京への帰途大阪に立ち寄り、「11 PM」の番組が終わる頃を見計らって夜半の12時前から読売テレビの正面玄関で待っていた。会える保証もなく、もしかしたら!?というわずかの期待感しかなかったが、何と、12時半頃に藤本氏が付き人と思われる男性と一緒に正面玄関から出て来たので驚いた。
ドキドキしながら藤本氏に近づき、自己紹介と色紙、メッセージのお礼の言葉を伝えると「展覧会どうやった?」と、私のことを覚えていて下さり、「今夜、泊まりは大阪? そやったら、一杯どうや!」と誘われた。一言お礼のみ伝えて帰るつもりだったが、お言葉に甘えてしまった。
15分くらいで目的地に着いたが、夜半1時前だというのにスナックの店内は賑わっていた。さっきまで付き人だと思っていた男性は、私に飲み物を聞くとすぐカウンターに入り、藤本氏にはウイスキーのオンザロックを、私にはビールを持ってきてくれた。「おやっ」と思っていると、「ああ、彼、ここのマスターなんや。いつも送り迎えしてくれてるんや」と、紹介して下さった。
私たちが話している間も「義一っつぁん、明日3・8でどないやろ!」と、スポーツ紙を手にした客がいきなり藤本さんに話し掛けてきた。「あかん、あかん、そんなん止めとき、僕なら5・6やな」と、どうやら競艇か競馬の予想らしき相談に藤本氏は気軽に応じていたようであった。
そして、私には「今夜は冷えてるさかい、湯豆腐でもどうや?」と気遣って下さり、さっきまでテレビ局の外で待っている間に体が冷えきっていたのでありがたかった。 食事をしながら藤本氏は若い頃の思い出話を語って下さった。大学時代から数十編のラジオ・ドラマその他の脚本募集に応募しては採用される懸賞荒らしの常連だった。ところが藤本氏にはいつも気になる対抗馬が一人、山形県にいた。藤本氏があるコンペで芸術祭文部大臣賞を受賞した時、その相手は次席だった。また逆の場合もあり、面識のない二人はお互いに意識していた。 それが井上ひさし氏(脚本家)だった、という話は興味深かった。
その数年後、井上ひさし氏が「手鎖心中」で第67回直木賞を、藤本義一氏が「鬼の詩」で第71回直木賞を受賞し、青春時代の関西と関東のライバル同士が後に日本文学界で大きな花を咲かせることになる。 その時、藤本氏がふと「僕は、大阪の若い芸人たちに『金がのうかて、心まで貧しくなるな』と、いつも言うてんのや」と言った。この言葉が、私の心にもグサッと突き刺さった。その夜、スナックを後にしたのは深夜2時を回り、生番組終了後でお疲れなのにお付き合い下さった藤本氏の気さくな人柄と話術にすっかり魅せられてしまった。


▲ルック社の単行本の表紙絵(上段)と表紙デザイン(下段)

装丁、挿絵画家としての道が開ける
藤本義一著「骨までいただき」の単行本が好評だったこともあり、ルック社から次々と仕事の依頼がくるようになった。挿絵第2作目は「易者の学校」(手相から開運術、高等人相学まで)の本だった。
原稿に目を通しているうちに、表紙絵には街角で折り畳み机を広げ、無表情で椅子に座って客待ちをしている占い師の姿が思い浮かび、取材を思い立った。
幸い私が拠点にしていた渋谷駅周辺には、あちこちに占い師が夜遅くまで営業していたので、道玄坂、宮益坂のみでなく路地裏のネオン街まで歩き回り、その中から最も話しやすそうな年配の人を見つけ、夜遅い時間帯を見計らって取材をさせて頂いた。 私がいろいろ質問したので、「易では、陰と陽のバランスが一番大切なんでね、つまり・・・」と講義が始まり、そのうち、「あなたのこれからの人生を占って差し上げましょう」と言われそうになったので、お礼を述べて退散した。
その夜の取材のおかげで易者のイメージがつかむことが出来、占い師を表紙絵に大きく描いた。その後、多くの表紙絵を手掛けた。そのほかに、当時、「巨人、大鵬、卵焼き」の中で最も人気者の横綱大鵬の半世紀をつづった「がちんこ人生」、升田幸三、林海峰棋士たちのエピソードをつづった「碁界うらおもて」、全国観光バスガイド名セリフ集「おらが国の名所自慢」の表紙など、多くの単行本の表紙デザインにも携わった。

その後、編集長と仕事をする機会が増えるに従い、挿絵や表紙デザインのみでなく編集の仕事まで手伝わされる羽目になる。ある日、挿絵の完成原稿を届けに行った際、「お前、きょう時間あるか?」と聞かれ、「ええ、まぁ〜」といい加減な返事をしたところ、「これ、お孝さんの原稿だ、校正してくれないか」というなり、11 PM番組の藤本義一氏の相手役の安藤孝子著「異例聞どすぇ」(いれぶんどすぇ)の初稿ゲラ原稿を渡された。しかも、急いでいるからということで、編集室の机を借りてその場での突貫作業を強いられた。
「お前は勘がいいし、良い目を持ってるので編集にも向いてるぞ」とおだてられ、私は木に登る豚になった。おかげでその日は徹夜になってしまった。明け方までずっと原稿に目を通していたので目が疲れたが、作家の書いた文章に誤植や間違いを見つけ、赤字で訂正を加えていくのは初体験だったが、にわか編集者の気分を味わうことができた。

「ベトナムの子供を支援する会」野外展に加わる
ある日曜日の午後、銀座で人と会った後、数寄屋橋交差点に差し掛かると、交番脇の公園で数人のアーティストらしき人たちがパネルを並べて作品を展示していたので立ち寄った。パネルには絵や写真、文章で反戦のメッセージがダイレクトに表現されていた。
出品者の中に絵本作家としてすでに知名度のあった田島征三さんがいたので話を伺ったところ、児童文学作家、画家、デザイナー、写真家、漫画家など、創作活動に携わっている者たちが「ベトナムの子供を支援する会」という組織を作り、毎月一回最終日曜日に自分たちのメッセージを野外展という形で発表していることが分かった。 会が発足してまだ日が浅く、人数も少なかったが、作品展のみでなく、ベトナム戦争で親を失い、傷つき、障害を患った子供たちを支援するための募金もしていたので、そのまま通り過ぎることができず、その場ですぐ募金活動に加わった。そして、翌月からはメッセージの発信者として会に加わった。
出品作はB全版パネル(72.8cm×103 cm)のサイズに統一されていたので、大きな作品を毎月制作するのは大変だった。でも野外展終了後、会の借事務所に作品を持ち寄り、出品者全員が自作品の制作意図を述べ、それに対して皆で手加減なしの批評をするのだが、その合評会で私は絵のみでなく多くの社会問題を勉強する機会に恵まれた。
会が発足した1967年当時、ベトナム戦争が激しさを増し、沖縄の米軍基地からも戦闘機が直接ベトナムに飛び立っていた。それは日本も戦争に加担しているということにつながり、戦争が長引けば子供たちの犠牲者がどんどん増え、それを食い止めるには創作に携わる一人の人間として、より広く多くの人たちに真実と現実を絵を通して訴えることの大切さを痛感した。
そのためにはもっと影響力のある出品者や賛同者にも協力を要請しようということになり、時間をかけて根気強く地道にいろんな人たちに出品要請を続けた。その結果、漫画家の手塚治虫氏、絵本作家のいわさきちひろ氏、長新太氏、画家の井上洋介氏、高塚省吾氏、イラストレーターの黒田征太郎氏、杉浦範茂氏、デザイナー・映画監督の和田誠氏、哲学者の古在由重氏など各分野の知名人が興味を示し、作品を出品してくれるようになり、野外展に強力な味方が少しずつ増え、内容も充実してきた。著名先輩諸氏への出品要請、作品の受け取り、返却は会のメンバーで時間の都合のつく者がそれぞれ手分けして取り組んだ。


▲反戦野外展出品作「反戦デモの群集」イラストレーション(B全)

やがて、1970年日米安保条約改定を控えた1968年、1969年頃になると、過激な新左翼系学生とは別に、文化・知識人の間でもベトナム反戦運動が盛り上がり、作家の小田実(おだ・まこと)氏がベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)代表として、小中陽太郎氏(作家・評論家)らと共に市民レベルで精力的な活動をしていた。
一方、フォークシンガーの高石友也氏、岡林信康氏、小室等氏などが歌にメッセージを込めて若者たちの心をつかみ、米国側でもジョーン・バエズが反戦歌手として熱狂的な支持を得ていた。
1969年には東大安田講堂占拠事件が起きた。暴力的手段で全共闘や新左翼の学生たちが本郷キャンパスを違法占拠した際、藤本義一氏はちょうど同大に講師として招かれていた時とぶつかり、学生たちに長時間吊るし上げを喰い、大変な目に遭ったことを大阪でお会いした際に話していた。
そんな社会的背景もあり、我々の野外展にも関心が高まり、出品数も100点近くに増え、一般の支持者たちの数も増えていった。そのうち、我々の活動に共鳴して歌手・泉谷しげる氏、上条恒彦氏(現在両氏とも俳優として活躍)、横井久美子氏なども「ベトナムの子供を支援する会」のコンサートに協力してくれて、我々のグループが彼らのコンサートを手伝い、応援したり、横のつながりも広がってきた。
ところが、我々の野外展には支持者ばかりでなく反対勢力の妨害もあった。その中でも特に「大日本愛国党総裁・赤尾敏」の街宣車にはしばしば悩まされた。なぜか彼らも毎月末日曜日の同じ時間帯に同じ数寄屋橋公園、それも我々のすぐ目の前に陣取り、総裁は制服姿の党員数人を従え、日の丸の旗とスローガンを書いた幟(のぼり)を掲げた街宣車の上から、スピーカーの音量を最大限に数十分にわたって演説をぶつ。揚げ句の果てに我々を見下ろし、指さしながら「そこにいる貴様らのような若者がいるから、日本がダメになるんだ!」と締めくくり、軍艦マーチを流しながら立ち去る行為が何度となく繰り返された。
毎回同じような演説内容、それも鼓膜が破れそうな音量を身近な距離で聞かされ、会のメンバーの中でも忍耐の限界を感じていた者もいたが、お借りしている著名作家の作品を傷つけられないためにも衝突だけは避けねばならなかった。すぐ近くの数寄屋橋交番には数人のお巡りさんたちが警戒していたが、毎回見て見ぬ振りを通していた。


▲反戦野外展に出品したベトナム反戦ポスター「奉納・地獄極楽之図」(1972年制作)。40年後に京都・立命館大学国際平和ミュージアムで開催された「ベトナム反戦ポスター展」に選出、展示される

「反戦野外展」出品作が40年後に立命館大学で展示される
ベトナム戦争が激しさを増していた1967年11月から始まった反戦野外展は60回に及び、出品者も著名人から美大生、無名の若者たちを含めて5年間にたくさんの素晴らしい作品が生み出された。
そして、当時の膨大な出品作の中から41作品が選出され、2008年4月〜7月の3カ月間、京都・立命館大学国際平和ミュージアムで「ベトナム反戦ポスター展・アーティストからのメッセージ」が開催され、私の作品も手塚治虫氏ほか30名の作家と共に展示された。
出品作に選ばれた私の「奉納・地獄極楽之図」 (145.6cm×103cm、アクリル画)は、B全パネル2枚の連作で、右側に当時の米大統領リチャード・ニクソンのひざ上で寵愛(ちょうあい)されている佐藤栄作首相(当時)を描き、ベトナム戦争における日米関係を比喩。その対照として左側上方に救いを求めて逃げ惑う人たちに手を差し伸べる仏様(菩薩)を描いた。
私の作品に共感して下さった人たちの名前を絵の周りの額縁部分に記入して頂くことをお願いしたところ、皆さん快く賛同して下さり、その上、支援のカンパまでして下さった。私が意図していたメッセージ発信者と受け手の署名が加わって一枚の絵が完成した、思い出深い作品だった。

40年前に制作した反戦作品が同大ミュージアムに保管されていたらしく、それらが大学やいわさきちひろ美術館の協力を得て学生のみでなく一般の人達にも公開されたことに大きな驚きと感動を覚えた。私も40年前の拙作に再会したかったが、残念ながら果たせなかった。展覧会終了後、大学の主催者から展覧会の報告と共に大勢の入場者の感想文が届けられた。 その中にはこんなメッセージがつづられていた。

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手塚治虫さんのポスターの「なぜ日本のおとなは正義の味方をあんなに作っているのに、 ベトナムへはちっとも送ってくれないのだろう」が心に残った。直接反戦を訴える文言ではないが、この当時から日本の自衛隊の海外派遣の是非・不可の問題を提起していたと感じられた。ベトナム戦争について、正面から考えるいい機会となった。 (京都 法学部4回生 20代 男性)

反戦運動のエネルギーを感じた。今の日本には社会を変えようとするエネルギーがなさ過ぎると思う。(京都 産業社会学部3回生 20代 男性)

40年も前に行われていた日本のアーティストによる市民運動に身近に触れることができ、心を揺さぶられた。(京都 法学部3回生 20代 女性)

今回の特別展を観て、戦争に対する新たな視点に気がつきました。 (大阪 文学部4回生 20代 男性)

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40年前の野外展に積極的に作品を出品し、それを支えていた大半が私を含めて20代前半だった。展覧会を通して作品に込めた我々の「戦争のない平和」を願うメッセージが、今の同世代の若者たちの心に伝わったことに新たな感慨を覚えた。

〈 トロント 飛鳥童(あすか・わらべ)・記 〉

【編集部より】「わらべの楽苦画記」の「第1回・郷愁編」「第2回・闘病編」「第3回・工芸高校編」「第4回・サラリーマン編」「第5回・独立宣言編」はアーカイブの「アートエッセー」をご覧ください。トップページ「今週のトピックス・目次」の下の「過去のトピックス」をクリックすると見られます。

(2012年8月2日号)



 
 


 
 
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