【日秘文化会館訪問】

ペルー日系人協会の常重セサル元会長
日本大使公邸人質事件、フジモリ元大統領父娘を語る


〈 インタビュア・色本信夫 〉



▲リマ市にある日秘文化会館の建物

ペルーの首都リマ。その市内ヘスス・マリア(Jesus Maria)地区に日秘文化会館がある。3月2日、会館を訪れ、ペルー日系人協会の常重セサル(Cesar Tsuneshige)元会長とお会いした。常重氏は、現在、同協会の顧問という立場にある。 じつは、アルベルト・フジモリ元大統領の長女、ケイコ・フジモリさんにもご一緒にお会いする予定であったが、この日、彼女のスケジュールの都合でかなわなった。


▲日本人ペルー移民百年記念誌を手に、ペルー日系人協会の常重セサル元会長。後ろの女性は取材に協力してくれたペルー移住史料館の清水テレサ館長

日秘文化会館は1967年5月に落成記念行事を大々的に行い、日本からは天皇皇后両陛下(当時は皇太子殿下、美智子妃殿下ご夫妻)がご出席になった。
会館の施設としては、各種ミーティングルーム、総合教室、武道の道場、日本語学校、劇場、移住資料館、博物館、日本庭園、高齢者デイケア、診療所などが備わっている。さらに別棟に総合病院の高いビルが建っており、競技場もある。


▲日秘文化会館の敷地内にある日本庭園


▲日秘文化会館の大劇場。座席数は1,100席


▲移住資料館と博物館

ペルーには、現在、日系人は約8万人いるといわれる。そのうち70%は沖縄県出身関係者だそうだ。1999年には、ペルー移民百周年の記念式典が盛大に開催された。常重氏はその移民百年記念誌の編さんに汗を流したひとりである。戦前から戦後までの自らの足跡を懐かしそうにふりかえる。


▲1999年に開催されたペルー移民百周年記念式典の会場風景(移民百周年記念誌より)

■戦時中、かくれて日本語を勉強

常重氏は1935年、リマ市から海岸部に寄った港町カヤオ(Callao)に生まれる。父親は医師だった。家庭では両親と日本語を話して育つ。1942年幼稚園に、その後、公立の小学校に入学。当時、日本は太平洋戦争の真っただ中。おおっぴらに日本語を話すことができない状況下にあった。
「公立学校では生徒はペルー人、言葉はもちろんスペイン語だけ。授業で意味がわからないことが多くて苦労しました。家に帰ると両親と日本語で話すのですが、日本語の勉強は周りのペルー人にかくれて続けていました」


▲常重セサル氏

「戦後、父は私に医者になってほしかった。でも医師になるには学校の期間が長いということで、それよりも短い期間で修了する獣医の学校に行きました」
かくして常重氏は獣医となり、その後、長年にわたり活躍する。
日本からペルーに移民した人たちが共に手を携えて日系社会は成長しつつあった。そんな時、1992年ペルー日系人協会のセクレタリーに就く。3年間務めた後、副会長に。そして会長に就任した。会長になってからすぐ、常重氏は重大な事件に巻き込まれることになる。

■天皇誕生日祝賀会で人質となった常重夫妻

1996年12月17日夜、リマ市内の日本大使公邸で青木盛久大使(当時)の主催により天皇誕生日祝賀レセプションが開かれた。ペルー政府要人、各国の駐ペルー大使、地元の日系ペルー人、日本企業のペルー駐在員らが出席していた。そこに覆面をした一団が乱入して、約600人を人質に取った。
一団はトゥパク・アマル革命運動(MRTA)のメンバー14人で、逮捕・拘留されているMRTAメンバーの釈放、リーダーの妻の釈放、フジモリ政権による経済政策の全面的転換、身代金の支払いなどを要求した。しかし、人質の数があまりにも多すぎたため、女性、老人、子供などを解放。その後もさみだれ式に解放が続き、最終的には人質は70人程度になった。
日本外務省は現地対策本部の本部長として田中克之氏(元トロント総領事)を任命。田中本部長は現地で指揮を執り、その実力を発揮した。
その間に、1997年2月1日にはアルベルト・フジモリ大統領と橋本龍太郎首相(当時)がカナダのトロントで首脳会談を行い、解決策について討議を行っている。


▲アルベルト・フジモリ元大統領(移民百周年記念誌より)

「私はペルー日系人協会の会長だったので、夫婦で招待されて公邸にいました。人質になって5日目のこと、私たちは解放されたのです。政治的な関係者ではなく、文化的なことに関わっている人は出ていってもいいということだったのだそうです。政治的な人、商社関係のトップの人たちはそのまま拘束されていました」

人質になった人たちはどのような状況だったのでしょうか。
「私は妻と一緒で、小さな部屋に34人が入れられました。別の部屋には70人も詰め込まれていました。こんなに大勢の人がたった一つのトイレを使っていたのです。水も電気も外部から遮断されて使えない。私は小さい頃、ボーイスカウトで訓練を受けていたので、ある程度はこんな生活についていけましたが、たいていの人は大変でした」

飲み水や食料品は?
「最初は、天皇誕生日祝賀会のお料理の残りものがあったので、それを食べていました。最初はよかったけど、やがて欠乏。一つのパンを5人で分けて食べていましたよ。国際赤十字が動き始めて食料が配布されるようになりました」

青木大使はどのようなことをしていましたか?
「青木大使は、公邸に蓄えていた水などを配ってくれました。毎日、各部屋を回って人質の皆さんを励ましていました。私は、大使が羊羹(ようかん)をくれたことを、今でもよく覚えています。ナイフがないので、糸を使って羊羹をうすく切ってみんなで分けて食べました」

■戦闘に備え日秘文化会館の診療所で血液準備

テログループはどんな人たちでした?
「当時、ペルーには二つのテロリストグループがありました。一つはこの大使公邸事件を起こしたMRTA。もう一つはセンドロルミノーソというグループです。MRTAは人を殺さないやり方で、センドロルミノーソは過激的で人を殺すことがよくありました。だから、MRTAは事件を起こしてからかなり長い間、人質には危害を加えないという状況が続いていました。センドロルミノーソだったら、私たちはどうなっていたか分かりません」

ペルーの日系人は事件発生後、どのような活動をしましたか?
「日秘文化会館は事件の対策センターになりました。会館内の大ホールで赤十字の人たちと話し合いを続けました。中南米の国々から外交官が来て、討議。世界中から報道陣が集まりました。会館敷地内にある診療所と総合病院では、いざ戦闘になった場合の備えとして、負傷者受け入れ態勢を固めるとともに、献血運動をして血液を確保するなど、準備をしました」

フジモリ大統領は、防弾チョッキを身に着けて現場で陣頭指揮を執ったと報じられている。大使公邸人質事件は発生から4カ月後の1997年4月22日、ペルーの軍と警察の特殊部隊が公邸に突入して、MRTAのメンバー14人全員が射殺された。この救出作戦で人質側にも3人の死者が出た。こうして事件は解決したが、フジモリ大統領の独裁的な権力に対する批判が高まったといわれる。

■フジモリ大統領と娘ケイコ・フジモリさん

フジモリ大統領に対する評価は?
「ペルーは1980年代、高インフレ率、社会不安が続いていたのですが、彼が1990年、大統領に就任してから2000年に辞職するまでの在任中にだいぶ良くなってきました。就任の際、自分は日系社会のためではなくペルーの国民全体のため仕事をすると言っていました。今日の経済政策はフジモリさんの政策を続けているから良くなっているのだと思います。人権問題で犠牲になった人がいますが、それはフジモリさんの責任ではなく、周囲の人のせいだと私は考えます。政敵もいますからね」

フジモリ大統領は1990年代に起きた軍特殊部隊による民間人殺害事件の責任を問われ、2009年、最高裁で有罪として禁固25年の判決が下された。現在、リマの警察に所属する刑務所に収監されている。最近、舌がんに苦しんでいるということで、長女のケイコ・フジモリさん(37歳)が週に何度も面会に行って父を励ましているそうだ。


▲ケイコ・フジモリさん(移民百周年記念誌より)

「ケイコさんはアメリカのボストン大学、コロンビア大学で学び、ビジネスMBA(経営学修士)を取得。とても頭のよい女性です。父親の判決のあと政界入りし、2006年、国会議員当選を果たしました。その勢いで、2011年4月に行われた大統領選挙に立候補して2位を獲得、1位の候補者との決戦投票に臨んだのですが、惜しくも敗れました」
記者は常重氏の取材の数日後、リマの郊外の農村地帯をバスで旅した際、沿道の家の白壁に「KEIKO PRESIDENTA」の文字が書かれてある風景を何度も目にした。この地域の住民にも、ケイコさんの人気が高かったことが推測される。
「フジモリさんは、熊本出身の両親がペルーに移住して戦時中の人種差別などで苦労しているのを見て育った。それだけに大統領になってから、弱者の味方となって奮闘しました。不況経済対策、それにテロ対策を講じて治安を安定させることを最優先としていました。地方へもまめに訪れて、道路や学校などの建設にも力を入れた。インディオの衣装を着て住民と一緒に食べたり、しゃべったりすることもありましたよ」
こう語る常重さんには、ケイコさんが次の選挙で父親のようにペルーの大統領になってほしいという期待が強いと感じた。

【編集部より】今回の取材にあたり海外日系人協会のご協力をいただきました。
※ペルーの旅行記は4月4日号より4回連載で掲載します。

(2013年3月21日号)



 
 


 
 
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