【カナダ観光めぐり・ロンドン】

開拓時代の歴史を建物が語ってくれる  
ファンショー・パイオニア・ビレッジ 


〈 オンタリオ州ロンドン市 ウィルソン夏子 〉

オタンリオ州のある街に、ぽっと降り立って以来、そこに住むことになった。以来30年以上という年を経た。だからこの街は、出身地の名古屋よりも永く住むことになり、今ではごく自然に「我が町」と言うようになった。
オンタリオ州西部にあるこの街がロンドンと名付けられたのは、1793年。当時の総督シムコーが、この街を将来アッパーカナダの「首都」にしようと心に描き、彼の国(イギリス)の首都と同じ名前をつけたからだった。しかし、いろいろな事情で「首都」は、トロントに取って代わられた、といういきさつがあった。
2011年の調査では、人口約37万人、カナダでは11番目に大きい都市である。別名「森の街」とも呼ばれ、今はふさふさと葉をつけた大木が、道の両側から覆いかぶさるように、小道を覆い、緑のトンネルを作っている。私にとっては、住み心地のいい街である。

この街の北東部の端に広大な公園があり、パイオニア村はその中にある。ファンショー・パーク・ロードを北に走り、クラーク・ロードで右折すると、ファンショー公園がある。ロンドンの飛行場が近くにあることから察せられるように、ここは1,200ヘクタールという敷地にわたる公園なので、公園内も車で走り、ファンショー・パイオニア・ビレッジ(Fanshawe Pioneer Village)まで来る。
駐車すると、まず向こうに湖が見える。この日、5月の末日だったが、夏を待ちきれないかのように、気の早い人が水に入っていた。


▲ファンショー・レイク

ここは、北から走るテムズ川が流れ込む人口湖だが、森に囲まれ、波のない穏やかな湖。オンタリオ州の南西を走るテムズ川周辺には、昔、オジブエ族、オダワ族、ニュートラル族などの先住民がいた。


▲ファンショー・パイオニア・ビレッジの看板

さて、パイオニア・ビレッジの歴史は、1820年ごろから1920年ごろまでの百年を33の建物で語らせている。そのいくつかを紹介しよう。
ロンドンには、アイルランドの南部ティぺラリー州から移住した人が多いそうだ。1820年ごろ、最初の移住者たちが住んだ典型的な家。部屋は、一部屋で、中央にテーブルがあり、右にベッド、左に台所。塩や香辛料などの調味料は、天井の梁(はり)につるされた袋におさめられており、実際に人々が生活していたことが感じられる。国を出た時の箱型の旅行かばんが片隅に置かれてあった。簡素だが、結構手際よく生活できると思った。この街に移住した人々は、このような家から新生活を始めたことを知り、ちょっと胸が打たれた。寒い日には、暖炉で薪(まき)がたかれるそうだ。


▲主婦

当時の主婦を思わせる服装をしたガイドさんが、外で手仕事をしていた。


▲洗濯板

ああ、懐かしい。洗濯板を最後に見たのは、いつ頃だったろうか。訪問者は、この家の庭で、この板を使って、実際にふきんなどを洗ってみることができる。布も用意され、桶(おけ)には水も入っていた。

次に建てられていたのは、丸太の学校。この日、職人さんが屋根の上で働いており、屋根のふき替え中だった。1840年代の納屋を見て、道を進めば、時も進む。1850−1880年ごろに建てられた鍛冶屋、居酒屋、旅籠(はたご)屋があった。ちなみに、ロンドンが市となったのは、1885年で、市が繁栄し始める頃である。

パープル・ヒル・ロッジは、アイルランドの新教の移住者によって建てられたロッジ。南西オンタリオには多くみられる集会所で、ここでダンスや夕食、コンサートが行われ、人々が互いに知りあう場所となった。

1880年から1910年ごろには、ロンドンを含めたミドルセックス郡では経済が発展し、人口も増えてゆく。この時代には、学校では、州によってカリキュラムが定められた。


▲ファンショー学校(1871年)


▲教室

教室は一つであるのも、当時の標準的な建て方となった。雪の多いことで知られるこの地域には、スト―ブは欠かせない。教室の前方ではなく、後方にあるのは、生徒を考えてのことだろうか。


▲パイオニア村の創立者ウィルフリッド・ジュリーの家

パイオニア村の創立者はウィルフリッド・ジュリー(W. Wilfrid Jury=1890−1981)。 ロンドン近郊の村で生まれた考古学者であり、歴史家であった。彼はまた、ロンドンのネーティブ・インディアンの博物館の創立者でもある。


▲ジュリー家に向かうガイド嬢


▲画家ポール・ピ―ルの少年時代の家

カナダを代表する画家ポール・ピ―ル(Paul Peel=1860−1892)は少年時代、この家で過ごした。ロンドン生まれのピ―ルは、幼い時から父親の下で絵画を学んでいる。その後、アメリカで学び、パリに行く。1889年、29歳のとき、パリの春のサロンに出展し、ブロンズ・メダルを受賞する。翌年、地元ロンドンに戻り、62点の作品を展示、販売するが、1点も売れなかった。落胆した彼は、二度と自分の街には戻らなかったという。
2年後、彼はパリで肺炎のため32歳の生涯を閉じた。皮肉にも死後、彼の作品は称賛を受け、一夜明けると、カナダの英雄になったそうだ。少年や少女を描いた作品が多く、絵画の対象として、裸体を探求した最初のカナダ人画家としても知られている。ここにも若くして生命を終えてしまった芸術家の生涯があるのを知った。


▲ピール家の庭に咲いていたアイリス

1900年代に入ると、この地方には急速な変化が起こる。織物倉庫が建てられ、電報、電話、郵便なども扱う雑貨店も生まれた。時を経て、現在も存続する企業も活躍し始める。


▲ラバッツ・ビール工場の前身

ラバッツのビール工場は1847年、ジョン・K・ラバッツによって創立され、のちカナダで最大のビール醸造会社になった。その工場の前身の建物がビレッジ内にある。現在ラバッツ・ブルーは、世界で最も売れているカナダのビールだそうだ。


▲新聞が発行されていたプリントショップ

週ごとの新聞が発行されたのは、1849年1月2日。3年後、「ロンドン・フリー・プレス」と呼ばれる日刊新聞になり、現在では、南西オンタリオ州では一番発行部数が多い新聞である。


▲トリニティー・アングリカン教会

トリニティー・アングリカン教会はゴシック建築様式の教会の代表とされる。1887年。


▲スクールバスで訪れる子どもたちが明るく飛びまわっていた


▲羊もおっとり

振り返ってみると、なんだか映画のセットの中を歩いているようで、きれいで、興味深かった。数年前とは比較にならないほど、ビレッジの建物は、手が行き届いていた。ゆっくり歩いて、思いがけなく楽しい2時間となった。

咲き揃う
アイリスの花
それぞれに
精いっぱいの
紫の宴

(2013年6月20日号)



 



 
(c)e-Nikka all rights reserved