【カナダ事件簿】

1934年ラバッツ社長誘拐事件 〈その1〉 
車で出社途中、誘拐され身代金15万ドル  


〈 オンタリオ州ロンドン市 ウィルソン夏子 〉  


その日も、ピカピカに輝いた黒塗りの乗用車は、スムーズに家を出た。このオールズモビル社の箱型の高級車リオロイヤルを運転しているのは、ラバッツ・ビール会社社長のジョン・ラバッツ氏(54歳)である。夏ではあるが、真っ白のワイシャツに濃紺のネクタイをし、夏用の水色の上下のスーツを着ているのは、カナダ最大のビール会社の社長としての身だしなみと考えているからだった。


▲誘拐事件の2年前のジョン・ラバッツ氏(1932年)

これまでの半世紀に及ぶ彼の人生には、不確かな要素というものはなかった。すべてが順調に進み、現在と将来の地位が保証されており、会社の運営もうまく行っていた。中肉中背、黒い髪に黒い目をしており、一見、典型的なぼんぼん育ちの3代目社長に見えなくもない。しかし、この確かな彼の人生に、ある日、予測できないことが起きた。

1934年8月14日(火曜日)。いつものように朝9時15分に家を出るはずだったが、その日、彼は10分ばかり出遅れた。生後3カ月になる赤ん坊を産んだばかりの妻に、やさしい声をかけていたからだった。家庭を大切にするのは、彼の性格で、稼業のビール醸造会社を引き継いだ3代目である自分の存在は、立派な祖先がいたからこそ、ということを十分に知っていた。

「出遅れてしまったから、近道をしようか」と思い、ラバッツ氏は、木々におおわれ、舗装もされていない道を走った。高速道路に入る前に、交通量の少ないこの道を走れば、出遅れた時間をかせげ、午前10時半の会社での会議に間に合うだろうと思ってのことだった。この近道こそ、不確かな要素が介入する原因になった。

家を出て、数分後、森の中を走っていると、一台の車が、彼の車を追ってくるのにラバッツ氏は気がついた。「おかしいな」とは思ったが、幸いなことに、すぐに彼を追い抜いて行った。車には3人の男が乗っているように見えた。しかしラバッツ氏が安心したのも、つかの間だった。追い越して行った車は、引き返し、ラバッツ氏の方向に走ってきて、2台の車は正面衝突するほどの距離になった。選択の余地はない。ラバッツ氏は車を止めた。男の一人が車から降り、開いている窓からラバッツ氏に拳銃をつきつけた。
「手を上げろ。誘拐だ」

今からちょうど79年も昔。暑い8月のことである。ラバッツ氏の邸宅は、会社があるオンタリオ州ロンドン市にある。しかし湿気が高く、蒸し暑すぎるので、夏の間、ヒューロン湖を望むサーニアの近くのブライトグローブに家を借り、家族と共に住んでいた。ラバッツ氏は、一時間と少々をかけて、ロンドンに通う、という日々を過ごしていた。彼の車は、先述のように、1920年代、作家のスコット・フィッツジェラルドが乗りまわしていたような箱型のぜいたくな車である。


▲年代物のビール樽と木箱

この車が象徴しているように、ラバッツ氏の人生は、穏やかな波に乗せられて、何ひとつ不自由のない生活を送ってきた。正式な名前を John Sackville Labatt (ジョン・サックヴィル・ラバッツ)といい、彼はオンタリオ州ロンドン市で1880年3月10日に生まれた。
モントリオールのマギル大学で科学を専攻し、祖父の時代から始まったビールの醸造業の仕事に就いたのは、わずか20歳の時だった。ニューヨークで、醸造に関する学校にも一年通ったことがある。父の死によって、3代目の社長の地位についたのは、35歳(1915年)の時だった。結婚したのは、46歳の時で晩婚だった。

誘拐された当時、幼少のこどもたちや、赤ん坊がおり、安定した家庭生活を送っていた。当時、彼の資産は、500万ドル(現在ではおよそ6,800万ドル)と評価されていた。しかし一つだけ、彼が心配していたことがある。それは、心臓病である。数年前に心臓発作が起こったことがあり、以来、外出する時には、常時薬を携帯するのを忘れなかった。

この日、ラバッツ氏は弟のヒュー・ラバッツ氏と叔父と共に、会社でミーティングをすることになっていた。約束した時間は、午前10時半である。ラバッツ・ビール会社の運営は、家族親類内で円満に行われており、3歳下の弟は副社長であり、叔父は専務になっていた。

「手を上げろ。誘拐だ」と怒鳴り、主犯のマッカーデルはラバッツ氏に車の外に出るように言った。
男は、鉛筆と紙をラバッツ氏に差し出し、その下敷きを支えながら、
「俺の言うことを書け」とラバッツ氏に命じた。
ラバッツ氏が書かされた内容はこうである。

1934年8月14日
親愛なるヒュー様
この男たちが君に指示した通りにしてほしい。
警察には知らせない方がいい。
君が彼らと交渉すれば、
私には危害を与えない、と言っている。
愛情をこめて
君の兄より ジョン・S・ラバッツ

ラバッツ氏は、しっかりと読みやすいように書いた。乱れた文字は、全くない。
主犯は、ラバッツ氏が書き終わると、ラバッツ氏の目にガムテープを当て、目隠しをした。その上に黒いサングラスをかけさせた。自分たちの顔を見られないこと、かつ、これから連れてゆく隠れ家を、知られないためだった。(しかし、すでにラバッツ氏は、彼らの顔をすでに見ていることに、彼らは気がついていないらしいのだった)
主犯は言う。
「君にかっこよくしてもらうために、この黒メガネに8ドルも使ったんだぞ」

犯人たちは、これから人質をムスコカの隠れ家に連れていくのだ。太っちょペグラムに運転させ、主犯のマッカーデルとラバッツ氏は車の後ろの席に座った。
マッカーデルは、人質と言葉を交わす。
主犯「君は多分48時間以内に解放される。俺達は、$150,000を君の弟に用意するように伝えてある」
ラバッツ氏は聞く。
「なぜ私を誘拐するのだ。いったい私が何をしたというんだね」
主犯は言う。
「君は、なんにもしていないさ。ただ現金を手に入れたいだけだ」

もう一人の誘拐者ノールスは、ラバッツ氏の豪華な車を運転し、ロンドン市のセントジョセフ病院の駐車場に着いた。ラバッツ氏の妻が、3カ月前この病院で赤ん坊を産んだ時、いつも止めていた場所をノールスは知っていて、そこに駐車した。運転手席の下には、脅迫状を置いた。脅迫状には、印刷された文字でこう書いてある。

「君の兄さんのジョンは、俺たちの手中にある。身代金は、$150,000だ。トロントへ行け。そしてロイヤルヨークホテルに泊まれ。その時点で、身代金の受け渡しの場所を交渉する。君の兄さんの安全を望むなら、警察や新聞社には言わないように忠告する。俺の名を『3本指のエイブ』と覚えておけ」

この脅迫文は、犯人グループの中で一番教養があるということで、ノールスが書いたものだった。ラバッツ氏の車を駐車した後、ノールスは、ラバッツ氏の弟ヒューの家の自宅に電話をする。メイドが取った。
「ラバッツ家でございます」
男の声があった。
「ヒュー・ラバッツを出しな!」
突然、乱暴な口調を耳にしたメイドは震えあがった。(「その2」に続く)

【資料】Snatched! The Peculiar Kidnapping of Beer Tycoon John Labatt by Susan Goldenberg, Dundurn, 2004
【写真は、Museum London 2013年7月の展示会より】

(2013年8月8日号)



 
 


 
 
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