【バンクーバー総領事館125周年】

第3回講演会、岡田誠司総領事とヘンリー清水氏
第二次世界大戦時代の領事館、日系人強制収容所


在バンクーバー日本国総領事館開設125周年記念講演会の第三回目は6月27日にスティーブストン仏教会で開かれた。 「第二次世界大戦時代」と題して、岡田誠司バンクーバー総領事が当時の領事館の状況や日本の立場について、また、ヘンリー清水氏は当時の日系収容所での自らの体験について講演した。


▲講演会の会場。今回も大勢の人が詰めかけた

1941年12月7日に太平洋戦争がぼっ発。日本国領事館は閉鎖され、1926年に購入した現在の総領事公邸の建築物もカナダ政府によって売却された。
当時、日系カナダ人の数は推定2万3000人とみられる。その約96%の日系人がブリティッシュコロンビア(BC)州沿岸に居住し、大部分がバンクーバーとスティーブストンに集中していたが、1942年2月から日系カナダ人への内陸部への強制移住が始まった。

終戦となった1945年から4年後に強制移動の居住が解除され、日系カナダ人は自由に身動きできるようになった。しかし以前住んでいたところは売却され、何もかもなくなってしまったので、多くの人々はカナダ国内の他の土地に移住したり、日本に帰国するなど、さまざまな形で移動せざるを得なかった。

一方、日本国領事館は1951年9月サンフランシスコ平和条約調印の翌年(1952年)5月20日に、安川壮(やすかわ・たけし)領事によって再開された。一度は売却された現在の総領事公邸は1958年に日本国政府によって買い戻され、今日に至っている。

第一部:岡田誠司総領事の講演


▲講演する岡田誠司バンクーバー総領事

1941年12月7日、日本軍がハワイのパールハーバー(真珠湾)を攻撃、それに伴いカナダも米国や英国と共に日本に対し宣戦布告を行った。このことにより、12月16日をもって日本はカナダの敵国となってしまった。1942年に入ると、カナダ西部に住んでいる日系カナダ人は内陸に移動するよう、カナダ政府からの命令が出された。

RCMP(連邦警察)の報告書には、カナダの外務大臣がオタワの日本国大使館の吉澤清次郎特命全権大使宛てに、「日本とカナダは1941年12月7日をもって戦争状態になっていることを書状にて知らせた」とある。
領事館の職員はRCMP長官の命令でRCMPに拘束された。これは国際間の戦時における慣習で、領事館職員はRCMPの許可なしには外出もできなかった。この日から在バンクーバー日本国領事館はカナダ各地の他の領事館と同様、閉鎖された。

当時の河崎一郎領事は太平洋戦争開始についての知らせは一切なく、12月7日のラジオのニュースを聞いて初めて知ったという。日本政府以外にはだれもこの戦争について知らされていなかったし、東京本省からの内部情報も全くなかったのである。
12月7日のバンクーバー・プロビンス新聞のインタビューで、河崎領事は「このブリティッシュコロンビア州には日系カナダ人が2万3千人いる」と述べている。
その ほとんどの人たちはカナダ国籍証明書を保持し、カナダに忠誠を誓う者たちとされていたし、一般のカナダ人たちは優しく広い心を持ち、その中立宣言書保持者たちとは平和に過ごせると思っていたのである。

河崎領事が開戦のニュースをラジオで聞き、すぐにオタワに連絡を取りたいと思い電話をしたが、全く通じず、何の連絡もとれなかった。その間、公邸で待つしかなく、重要書類を庭で燃やし消却した。

3日目にRCMPが公邸にやって来て、河崎領事にしてよいことといけないことの詳細を伝えた。これで彼もすっかり拘束された状態となってしまった。
拘束されている間、スペインの首席領事が何度か公邸を訪れ、バンクーバーと東京との間でやり取りされている情報を届けてくれた。

1942年5月、日本と連合国間の調整でやっと日本に戻れることが決まり、河崎領事と家族は米国経由で日本に帰国した。 この戦争は1945年8月15日に終戦を迎え、バンクーバーの日本国領事館は1952年5月、安川壮領事によって業務が再開された。戦時中、売却された現在の総領事公邸は1958年、日本国政府によって買い戻され、今日に至っている。

第二部:ヘンリー清水氏の講演


▲日系人強制収容所での自らの体験を語るヘンリー清水氏

形成外科医であったヘンリー清水氏は、自ら描いた絵画をプロジェクターで映しながらBC州ニューデンバーでの戦時中の生活を語った。 清水氏は1928年にBC州プリンスルパートで生まれ、第二次世界大戦時の日系人強制移動で家族と共にニューデンバーに移動させられた。1942年から1946年まで彼がティーンエージ時代を過ごした時の思い出を退職後、油絵で再現したものである。

日系人強制移動から約60年近くたったある時、ロサンゼルスの日系アメリカ博物館で、アメリカでの日系人抑留生活を描いた絵に目がとまった。カナダで自分たちが過ごした抑留生活とはあまりにも感覚が違っていたのを見て、カナダにおける抑留生活の実態をぜひ残さなければと思い立ち、絵を描き始めた。 アメリカの収容所キャンプ生活はただ悲惨なだけであったように感じられたが、カナダではもちろん大変なこともたくさんあった中で、楽しい生活もいろいろあったという。


▲カナダ政府が日系人に出した通達。日本人は敵国民とみなされ、内陸への移動命令が下された(ヘンリー清水・作)

1942年1月、「カナダ国家の安全確保」というスローガンのもとに、日系カナダ人すべてが敵性国民とされ、内陸部への移動を強要された。連邦政府では、国家の安全性に問題はないと判断していたが、BC州公安委員会は、戦時特別法と行政命令を駆使して、民族浄化を果たそうという人種差別であった。

同年3月25日プリンスルパートに住んでいた600人以上の日系カナダ人は鉄道の駅に集められ汽車でバンクーバーのヘースティング地区に送られ、そこで一時的に収容された。何が起こっているのか分からない子供たちは「バケーションにいくのか?」などという会話もしていたという。

清水氏の家族は同年8月、バンクーバーからニューデンバーに向かった。35時間の汽車の旅であった。
ニューデンバーに着くと、地元の人々は「自分たちの生まれたところに帰れ!」と叫んでいたが、自分たちはカナダで生まれたのにどうして?と思った。
周りの町はほとんどゴーストタウンになっていたが、ニューデンバーには小さなスーパー、衣料品雑貨店、小さな銀行、古いホテル、そしてコンサートホールも残っていた。

最初は軍から一家族ずつテントがあてがわれ寝泊まりし、食事はアイスホッケーなどに使われていた建物内で全員一緒に取った。
その後、古い建物を改造したり簡単な小屋も建てられた。その数は200軒にも及んだ。2軒の風呂屋やコミュニティーセンターも建てられ、小学校用の大きな建物も出来上がり、寒い冬が訪れた11月末には建物の中に入ることができた。

しかし、ここで予期せぬ事態が起きたのである。急いで小屋を建てたため、乾燥木材が不足し、生木を使ったのだが、これが乾燥する時に反(そ)ってしまい壁に隙間が出来て冷たい風がもろに室内に入ってきたのである。内壁も凍るような状態で、病人が大勢出た。 翌年からは壁に断熱材を入れたり板を打ち付けたりしてかなり改善されていった。

次なる問題は水の確保とゴミの処理であった。1943年後半までには何カ所かに水道の蛇口が取り付けられたが、最初の頃はその水を各家庭にバケツで運ばなければならなかった。これは女性や子供の仕事だった。その後、水道も引かれた。
暖房はダルマストーブでとっていた。1943年暮れには電気も使えるようになった。


▲アイスホッケーを楽しむ若者(ヘンリー清水・作)


▲盆踊り大会に浴衣(ゆかた)姿で参加する女性たち(ヘンリー清水・作)

冬には池が凍るので若者たちはアイススケートやアイスホッケーを楽しみ、また、スキーも楽しんだ。
毎日雑事に追われ学業に忙しくスポーツで活躍していた若者もいれば、カナダの若者並みにカタログオーダーで手に入れた流行の服装を着て歩きまわっている若者もいた。ブリティッシュコロンビア州では、日系人に対して1年生から8年生までの教育設備はあったが、それ以上の教育には予算を出さなかった。

特に教育に熱心な日本人たちにとっては痛手であったが、カトリックの教会がノートルダム・ハイスクールを開設し、ケベック州やアメリカから尼僧も送られて、しっかりした教育を行ってくれた。特に語学系に力を入れてくれたが、聖書の時間など宗教的なものはなく、ダンス、音楽、スポーツの課外授業があったことは、みんなの興味を引いた。後に合同教会もハイスクールを開設している。
ここの教育は若者たちに精神的余裕と安定をも与えてくれたという。


▲カトリック教会の尼僧たちが開いた料理教室(ヘンリー清水・作)

さらに、ここの尼僧たちは大人たちに対しても日常の生活で何か出来ることはないかと考え、女性たちには、フランス菓子の作り方など教え始めた。また、学生を含め、社会で生きていくためのマナーや技術を身に付けられるよう音楽会を開いたり演劇の練習をしてホールで上演、正式なダンスまで教えてくれた。尼僧たちは収容所の人々を一人前の人間に育て上げるため、生きる目的となるものを与えようと献身的な情熱を注いでくれたという。

収容所に行く時には、制限されたほんの身の回りのものしか持って行けなかったが、それでも各家庭の荷物には大切にしていた着物が入っていたという。日本の伝統文化も盛んになり、日本舞踊が始まり、集会には踊りが付きものとなった。盆踊りも毎年、催すようになった。レコードや蓄音機を持ってきた人がいて、皆で大事に保存していたのである。

野球のセミプロだった選手もいて、ここでも野球が始まった。道具は地元の店舗やカタログセールで入手することが出来、みんな野球に夢中になっていた。アメリカの野球チームからスカウトされた二世の若者もいたが、法的に不可能であった。


▲風呂屋の男湯風景(ヘンリー清水・作)

日本式の二軒の風呂屋では、薪(まき)式の大きなボイラーが設置されていた。収容所の人たちにとって共用風呂は疲れを癒やすと共に、その日に起きたことやニュースを話し合い、日系人の連帯感を維持する大切な場でもあった。
どこの家でも野菜畑は作っていたが、まわりには果樹園や日本庭園を作るファミリーもいて、 季節の良い時期にはリゾートのようで、住み心地は良かった。

○    ○    ○

講演後の質疑応答では、他の収容所で過ごした人たちの体験談も出て会場は盛り上がっていた。

〈 リポート・妹尾 翠 〉

(2014年7月17日号)



 



 
(c)e-Nikka all rights reserved