【来年70周年広島ルポ】

「原爆投下の直前、市電を降りて命が助かった!」
トロント大堀ジョーさんの被爆体験談もとに現地を訪ねる


〈 取材・色本信夫 〉

第二次世界大戦の末期、広島と長崎に原爆が投下された。その被爆者の何人かは、現在、カナダに住んでいる。私は先月(10月)訪日したが、来年、原爆投下70周年を迎えるこの機会に広島を訪れてみたいと考えていたことから、トロントを出発する前に長年の知人である大堀ジョーさんに会い、被爆体験談をお伺いした。


▲大堀ジョーさん(トロント市エトビコーの自宅にて、2014年10月3日撮影)

大堀ジョーさんは83歳。1931年4月23日バンクーバーに生まれ、9歳のとき、兄といっしょに両親の郷里、広島に行った。当時は多くの日本人一世が二世の子供たちの教育を日本で受けさせていた。

ジョーさんは広島高等師範学校付属中学校の生徒だった1945年8月6日、原爆の地獄を体験した。14歳だった。生死の分かれ目をさまよい、幸運にも命長らえて、広島高等師範学校付属高等学校で学んだ後、1949年カナダに戻り、トロントの両親の家での暮らしが始まる。
以来65年、心に被爆のキズを負いながらも着実な人生を歩んできた。


▲高校生の時の大堀ジョーさん。広島高等師範学校付属中学校/付属高等学校の校門前にて(1948年)


▲高校3年の同級生といっしょに(左から2人目が大堀ジョーさん)1948年 

トロント市の西部エトビコーのお宅でもの静かに、あの日の出来事を回想するジョーさん。広島市内で乗った路面電車(市電)の乗客は原爆で全員死亡。投下直前に電車を降りて建物の陰に入った瞬間、ピカッとやられたが命は助かったのだという。話を聞いているうちに、背筋がぞーっとするものを覚えた。
私は10月28日、広島で、当時ジョーさんが味わった苦痛を偲ぶよすがに、広電の市電に乗ってみた。

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あの日、1945年(昭和20年)8月6日。
広島市中区千田町(せんだまち)に住んでいたジョー少年は、午前7時30 分すぎ、停留所「広電本社前」で「広島駅」行きの市電を待った。14歳だったジョーさんは海軍士官学校を受験していたが、この日は広島県賀茂郡西条町に行く用事があるため汽車の切符を買いに広島駅に行こうとしていた。


▲今でも現役。時々お目にかかる広電電車の旧式車両。被爆した当時の電車と類似した型(2014年10月28日撮影)

▲戦時中、大堀ジョーさんが住んでいた家の近くの市電停留所(現在はモダンな看板に・・・)


ところが次から次へと来る市電は満員で乗れない。ジョーさんはしびれを切らして、来た電車の乗り口の反対側から乗った。乗ったといっても、電車の中には入ることができず、外側の足場に乗っかって行ったのだ。
「日赤病院前」を通って、「紙屋町東」「八丁堀」「的場町」へと進み、終点「広島駅」に到着した。
ジョーさんは、つかまって乗って来た市電を降りて、広島駅構内に入ろうとした。その瞬間、ピカッと大きな閃光が走った。


▲被爆した市電。1945年8月12日、爆心地から310メートルの基町(もとまち)にて(撮影:川原四儀氏=広島平和記念資料館の展示物より) 

午前8時15分。原爆投下。
他の乗客よりも早く駅に向かい、駅の建物の陰に行った途端の出来事だった。「原爆に直接やられなかった。建物のおかげで助かりました。閃光がひらめいた瞬間、あたりは真っ暗で何も分からなくなりました。僕は顔の左半分と左手をやけどしました。よく見ると、僕の前に到着した電車と、その後に僕が乗った電車は真っ黒こげに焼けただれて、乗客は全員、死んでいました。僕が電車から降りるのがちょっと遅れたら死んでいたでしょう」
だが、この時のやけどが、のちにジョーさんを苦しめることになる。

広島駅は爆心地から約2キロ離れた地点に位置する。「当時、中学校で行われていた防空演習で、空襲に遭って焼夷弾(しょういだん)を受けたら、体をつねってみよ。痛みを感じたら、まだ生きている証拠だと教わったことを思い出し、体をつねってみたら痛かった」とジョーさん。

駅で偶然、1年下の高木という下級生と会った。彼は半ズボンをはいていたので足をやられて歩けない。ジョーさんは顔をやられて目がよく見えない。
「僕は足が大丈夫、高木は目が見えるので、僕が彼を背負って現場から逃げることにしました。学校で『逃げるときは山に登れ』と教わっていたので、僕たちは広島駅から1キロほど南にある比治山(ひじやま=標高70メートルの小高い丘)にたどり着きました」
足が動かない人と目が見えない人の二人がおんぶして励まし合いながら焼け跡の中を進んで行く様(さま)は想像しただけでも胸が痛む。


▲原爆投下の当日、やけどと負傷にあえぐ被爆者。1945年8月6日午前11時ごろ、爆心地から2.2キロの千田町三丁目御幸橋西詰(撮影:松重美人氏=広島平和記念資料館の展示物より)

途中、太田川の分流、猿猴川(えんこうがわ)や京橋川では、川の中に飛び込んでいる人が大勢いた。やけどを負った人、のどが乾いて水を求める人が川に殺到したのだ。爆心地を流れる太田川や元安川も多くの被災者であふれていたそうだ。

ジョーさんがいちばん印象に残っているのは、女の人から「子供が家の下敷きになっている。助けてください!」と救いを求められたことだという。
「家の下に子供が閉じ込められていても、僕たち二人ではどうにも動かすことが出来ない。どうしようかと思案していたら、急に火の手が回ってきた。これはダメだ。とにかく母親だけでも助けようと彼女を引っぱっていこうとしたら、つっぱねた。その力はものすごく強かった。母親は子供のいる壊れた家の中に戻っていきました。おそらく彼女は死んだろうと思います」

このほかにも、両手の皮膚が垂(た)れている人、「水、水、水」と叫ぶ人など、市街の様子は昨日までの風景と打って変わって、まさにこの世の地獄だったという。


▲爆心地から半径2.75キロまでの被害状況を示した模型。赤いボールの真下(原爆ドーム付近)が爆心地。後方左側の小高い丘は比治山(ひじやま)

比治山に登った二人は、西側の爆心地方面を見下ろした。一面が焼け野原だ。そのときはこれが原子爆弾とは知る由もなかったが、強力な爆弾の威力をまざまざと見せつけられた。(当時は、新型の1トン爆弾だと考えられていて、原子爆弾と判明したのは終戦後のことだという)

「高木と二人で丘の上に座り込んで、これからどうしようかと思案にくれた。その時、中学の化学の先生(田辺先生)がやけどにはアンモニアがいいと言っていたことを思い出しました。先生は『アンモニアは誰でもみんな持っているぞ』と教えてくれたのです。それはおしっこです。さっそくおのおの空き缶に自分のおしっこをして、それをやけどに塗りました。あとで比治山神社に空き缶を供えて清めましたが・・・」

ジョーさんは高木少年と別れて、比治山から歩いて千田町の家に帰った。自宅は全部焼けて何も残っていない。家には兄のジョージさんがいたが、無事だった。
焼け跡で一晩休んで、翌8月7日、疎開先の広島県安佐郡亀山村大畑(現・広島市安佐北区)まで歩いてたどり着いた。


▲原爆ドーム(2014年10月28日撮影)

ジョーさんは原爆投下から2日後の8月8日、人事不省に陥った。時々、意識が戻ることもあったが、寝たきり状態になった。 「8月9日のソ連参戦、15日の終戦はあったらしいといった感覚で、意識はもうろうとしていました。とにかく寝たきりで、死んでいたかも知れない。あとで家族が『どのように治療していいのか分からなかった』と話していました」

こうした状態が2カ月近くも続き、生死の境をさまよったすえ、9月末ごろになって、やっと意識を取り戻した。
10月半ば、疎開先の中学校に戻った。しかし、髪の毛が抜け始めたのである。ジョーさんは学校から特別に許可を得て、授業の時間に帽子をかぶってもいいということになった。

医者からは「体に黒の斑点が出たら、1週間の命」と言われ、気持ちが大きく動揺した。患部がかゆくてひっかくと大変なことになると、心配した家族はジョーさんの手をひもでしばったりもした。ジョーさんも家族も原爆がもたらす症状をいやというほど味わった。


▲平和記念公園の広島平和記念資料館から原爆死没者慰霊碑と原爆ドームを望む(2014年10月28日撮影)

その後、体調が回復して高等学校を終え、1949年、カナダに帰国。トロントに住む両親のもとに戻る。母親は心配のあまり髪の毛が真っ白になっていた。
トロントでジョーさんは、カナダ太平洋航空(Canadian Pacific Air Lines)に10年間勤務したほか、長年にわたり旅行関係の仕事に携わってきた。

「広島は、75年間、草木も生えない。被爆者は命が長くない。被爆した人は排斥される、といった風評がありました。しかし、僕はカナダに戻って来てから今まで健康に問題はないし、3人の子供にも恵まれました」
ジョーさんは、今、悠々自適のリタイア生活を楽しんでいる。

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今回、私は爆心地すぐ近くの原爆ドーム、平和記念公園、大堀ジョーさんが住んでいた千田町などを訪ねるとともに、ジョーさんが被爆体験した市電に実際に乗ってみて、あの日のことをじっくり想起し、平和について改めて考える良い機会となった。

(2014年11月20日号)



 
 


 
 
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