【日系社会と共に】

バンクーバー新報の歴史—報道から見た日系人の歴史
社主・津田佐江子さんが講演


新移住者の人口増加時期1978年からコミュニティーの重要な情報源として発刊されたバンクーバー新報は日系コミュニティーと共に歩み、今年創立36年を迎えた。
その記念に9月26日、在バンクーバー日本国総領事館開館125周年記念の一環として、バンクーバー新報社主・津田佐江子さんの講演会がバーナビー市の日系センターで行われた。


▲講演する津田佐江子さん

講演は「バンクーバー新報の歴史 〜報道から見た日系人の歴史〜」と題して、1978年、手書きのバンクーバー新報第一号を創刊して以来、36年発行し続け現在に至るまでのさまざまな日系社会の紹介、ニュース、歴史など、共に歩んできた体験が語られた。


▲岡田誠司総領事・寧子夫人と、津田さん(中央)

岡田誠司バンクーバー総領事の挨拶では、「初期の日系人移民の時代は生活も落ち着かず多くの問題もあり、日系人を一つのコミュニティーとしてまとめていくことが大きな課題でした。そのような時期1897年には『バンクーバー週報』が発刊され、続いて『大陸日報』『カナダ新報』などが発刊され、情報共有が出来るようになり、日系人が強くまとまっていきました。新聞の使命は世論形成にも大きな役目を果たし、その効力は非常に大きいものです。『バンクーバー新報』は1978年から36年間休刊することなく重要な情報を提供し、日系人のメディアとして貢献してきました」とその努力と功績をたたえた。

津田さんの講演は、第一期=日系人アイデンティティー開花期(1971年〜1985年)、第二期=日本人増加により日系社会発展(1986年〜現在)の二部構成になっている。

津田佐江子さんの講演

■第一期=日系人アイデンティティー開花期(1971年〜1985年)
1967年にはカナダ移住がポイント制になり、誰でも一定の得点に達すれば、移住できたのです。1972年には外国人の占める比率が26%にも達し、多様文化大臣も新しく誕生しました。
バンクーバー新報の創刊時の社会状況は、バンクーバー内で一戸建て住宅が5万ドルくらいで買えたし、最低賃金は1970年=1ドル50セント、1975年=2ドル75セントでした。現在は10ドル25セントです。
「隣組」(1974年)や「バンクーバー移住者の会」(1977年)も作られました。日系百年祭も開催されています。


▲ガリ版刷りの「バンクーバー新報」創刊号(1978年12月)

バンクーバー新報の創刊は、1978年12月に手書きのガリ版刷りでスタートしました。
日本ニュースの入手は、日本からの貨物船がいつ、どこの港に入るか管制塔に問い合わせ、そこまで行って、日本から船員たちに送られてくる情報、ニュースなどをもらって、その中から選んでいきました。
バンクーバー、サレー、ノースバンクーバー、ニューウエストミンスターなどの港に出向きました。創刊号は500部刷ってバンクーバー市内パウエル街の日系人のお店やレストランに置かせてもらったのですが、またたく間にはけてしまいました。
バンクーバー新報のタイトルもカタカナになったり漢字(晩香波新報)になったりと、変わっていきました。


▲活字版の第1号(1979年7月14日付)。新聞のタイトルは「晩香波新報」だった

そして1979年7月には初めて活字新聞第一号が発刊されました。
活字にはなったものの字の大きさは調節出来なかったので、タイトルなど大きな字を必要とする個所は、紙活字を切って使いました。
1979年7月から1983年10月まで、最後のページに英語版を入れましたが、あまりニーズがなかったし、広告主からは英語が出ないページに載せてほしいという依頼もあり、途中でやめました。

初期の頃の思い出として今でもはっきりと覚えているのは、和文タイプライターを日本から取り寄せて税関に取りに行く時、通訳としてローイ・ウエダさん夫妻が一緒に行ってくれたことです。
車のドアが開かなくなるほど寒い日でした。ジャパニーズ・タイプライターがどんなものなのか説明を求められた時、ウエダさんは「3,000字ある活字を一つずつ拾って打ち込んでいくものです」と英語で説明してくれました。税関側は「それはタイプライターではなくタイプ・プレスで、そういうものはカナダにないから」と言って無税にしてくれました。まだお金のない時代に一台3,000ドル以上するものを2台も買ったので、とても助かったのです。インク・リボンも東芝が無料でくれました。

この頃の日本人の娯楽と言えば、夏のパウエル祭、そして1979年からは「年忘れ紅白歌合戦」も始まりました。
1981年になると日本映画の広告が増えてきました。また、我が社で1979年から始めたソフトボール大会は1990年には参加団体が16チームにもなり、熱戦が繰り広げられました。しかし、スライディングで骨折者が出てから31回目で休会となってそのままです。

1980年ごろの求人広告を見ると、男性はガーデナー、女性はウエートレスやキャナリー(缶詰工場)の仕事が多かったですね。

■第二期=日本人増加により日系社会発展(1986年から現在まで) 
日本人旅行者、長期滞在者、移住者など日本人の増加を受けて日系社会は発展しました。
1986年には中曽根総理大臣カナダ訪問、国際交通博覧会など、国をあげての日加交流も盛んになり、エスニック系の新聞にはカナダ政府からの多様文化主義の広告も目立つようになりました。
日本のバブル景気に乗って日本からの観光客も増え始めました。パンパシフィックホテルなど日系のホテルも建ち、日本の旅行会社の支店や代理店もオープンして、お土産屋やツアーガイドも増えていきました。1987年にはワーキングホリデー制度がカナダでも導入され、1996年には日本からの旅行者の数は72万9000人とピークを迎えました。日本人の増加で日系の地元企業も活性化されました。
その後は多発テロ、SARS問題、ブタ・インフルエンザなどの問題で2009年には20万人を割る状態となっています。
1988年は第二次世界大戦時の日系人補償問題が解決した年でした。
日本人の移住者数は1980年代は毎年100人程度でしたが、1994年には年間1,000人になっていて、その3分の2は女性が占めています。


▲「バンクーバー新報」紙面の変遷 

1994年には自社ビルを持てるまでになりました。
ちょっと自慢しちゃいますが、1996年には「インターネットでカナダ情報発信」海外邦字新聞では初めての試みとして、朝日新聞でも紹介されました。
クラシファイド欄で情報が増加するに従い、苦情対応も増えてきて訴訟問題に発展したこともありました。

1986年=移住者の会主催の法律講習会掲載、1998年=大相撲カナダ場所、2000年=日系センター・オープンに伴いイベント・スケジュールが増え、コミュニティー欄も充実。情報インフラとしての役割も大きくなっていきました。日本語学校の児童作品や趣味の会の短歌なども掲載。

2002年には若い人たちのために新聞を2部に分けて、「Van Weekly」として発刊しました。 2001年から2007年まではICASのカラオケ大会も開催されました。カラオケ全盛時代で、バンクーバーにはカラオケ・グループが19ほどありました。テレビジャパンが入るようになってICASはなくなりましたが・・・。

2009年7月10日から14日まで天皇皇后両陛下がBC州をご訪問、連日取材を行いました。
2011年、東日本大震災の時には震災の特別ページを作り、広告代などを義援金として赤十字に届けました。

初めの頃は、このような新聞を作ろうとは思ってもいなかったのですが、反響がよく、みなさんのご支援のおかげで、ここまで来ることが出来ました。お礼を申し上げます。

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津田佐江子さんは、この36年間の功績がたたえられ、今年9月25日、在バンクーバー日本国総領事公邸で外務大臣表彰を受けた。

〈リポート・妹尾 翠〉

(2014年12月11日号)



 



 
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