【戦後70年】

カナダ人の証として両親の反対押し切り軍に志願
日系二世兵士、フランク・モリツグさん


戦後70年を迎えた今年、さまざまな人がさまざまな思いにひたっていることであろう。
トロント市エトビコーに住む日系二世、フランク・モリツグ・晃(あきら)さんもその一人だ。モリツグさんは、現在92歳。第二次世界大戦中はカナダ軍の兵士として英軍に加わり、インド、ビルマ(現ミャンマー)戦線などで英軍に降伏した日本軍捕虜の通訳・翻訳・情報収集といった特殊任務に就いていた。


▲カナダ軍「136特殊部隊」としてインドで兵役に就いた当時のフランク・モリツグ軍曹(1945年)

父森次正春さんと母しずこさんは鳥取県出身で、正春さんはBC州でガーデナーをしていた。フランク・モリツグさんは1922年12月4日、バンクーバーアイランドのポートアリスで8人きょうだいの長男として生まれた。

1941年12月7日(日本時間12月8日)、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争ぼっ発。日系人移動で一家はBC州のタシメ日系人強制収容所を経て、1943年11月、東部オンタリオ州の町セントトーマスに移り、農場で仕事をすることになった。


▲森次ファミリー。BC州のタシメ日系人強制収容所にて。前列に父正春さんと母しずこさん、その後ろ中央がフランクさん(1942年)

当時、カナダは英国の要請により日本語の通訳をするBC州出身の日系二世の兵員を募ることになり、モリツグさんにも入隊募集の情報が舞い込んで来た。そして1945年2月、「陸軍に入れるようになった」という通知がきた。だが、日本生まれの両親を説得するのは容易ではなかった。

「両親はぼくの考えを変えようと必死でした。父は、なぜ、我々にこんなひどい仕打ちをするカナダのために戦うのかと怒りました。でも、ぼくは軍隊に入ることによって、ぼくたちが本当のカナダ人であることを彼らに証明したかった。長男として弟や妹の将来のためにということも真剣に考えて、軍に志願することを決心したのです。ぼくが陸軍に入隊すれば、状況が良くなるだろうと考えたからです」

ついに両親はあきらめて、息子の入隊を認めた。22歳の時だった。
その時に母が語った言葉は、今でも脳裏に残っている。
「フランク、日本軍の捕虜になったらすぐ自殺しなさいと言われたのです。ぼくは『OK』と答えました」

1945年6月、ノバスコシア州ハリファックスの港から輸送船に乗り組み、英ロンドン経由でインドに向かった。前月の5月には欧州での戦争が終結していたが、ドイツの潜水艦が攻撃してくるかも知れないということで、船は細心の注意を払って航行した。


▲漫画やイラストが得意なモリツグさんは、戦地からカナダの家族や友人への手紙にユーモラスなイラストを描いて送った

モリツグさんの「136特殊部隊」には日系二世が23人いたが、インドに到着後、日本語の会話・読み書き・英語と日本語の文書作成などで合格したモリツグさんを含む5人が、まず、任務についた。
カルカッタ(現コルカタ)で配属先の指令を待っていた当時、特別キャンプに派遣され、英軍の将兵に日本語を教えていたこともある。

敗色が濃くなった日本軍は、捕虜となった兵士が急増。そのおびただしい数の捕虜を捕虜収容所に入れて管理しなくてはならなくなった。捕虜の尋問とか、それに伴う文書作成などで、どうしても日本語が理解できる兵士が急に必要になってきたのだ。

同時に、136特殊部隊は、周辺のビルマ、マラヤ、シンガポール、インドシナの国々に向けて英軍・カナダ軍からのプロパガンダ(政治宣伝)を流すという任務も課せられていた。

8月7日、ラジオニュース(日本語のニュース)で「米軍が変わった爆弾を投下した」と伝えているのを耳にした。
「広島に原子爆弾が落とされたことを知りました。任務上、日本語から英語に翻訳したのですが、この新型爆弾は何か怖い感じがして、背筋がぞーっとしたのを覚えています。翌日の新聞 タイムズ・オブ・インディア に『Atomic Bomb』という言葉が載っていました」

このあと、8月9日、二つ目の原爆が長崎に投下された。
司令部から「英国の作戦をどれだけ日本が察知していたのか、調べてこい」と命令されて、ボンベイ(現ムンバイ)に赴き、ロンドンとワシントンと連絡を取り合うなど、あわただしい時間を過ごした。


▲インド・カルカッタに駐屯した当時の「136特殊部隊」日系カナダ人兵士たち。前列左端がモリツグ軍曹(1946年2月に撮影) 

8月15日、終戦。その日、モリツグさんの136特殊部隊はカルカッタ付近の駐屯地にいた。両親の祖国・日本の敗戦をどう受け止めたのだろうか。
「ぼくは、日本に行ったことはなかったけど、日本の雑誌などは読んでいました。しかし、やっぱりカナダ人です。国と国との戦争に行ったら、日本を負かさないといけないと考えていました」

じつは、モリツグさんには、当時日本に二人の従兄弟(いとこ)がいた。彼らは日本の軍隊に入っていた。ある人が「君のいとこと鉄砲を撃ち合うか?」と質問した。これに対して、「撃ち合いになっても、相手がいとこなんて知らないだろうね」と、複雑な心境を吐露したそうだ。

1946年5月、カナダに帰還して除隊、セントトーマスで家族と再会した。戦地に行ったにもかかわらず、とりわけ危険な目には遭わず、「軍曹」の階級までもらって、ラッキーであった。


▲兵役当時のベレー帽をかぶって。胸にはカナダ政府から授与された勲章が・・・(2015年6月撮影)

モリツグさんは、軍隊に入っていたため、大学に無償で行けることになり、1948年から4年間、トロント大学で政治科学を専攻する。そのかたわら大学新聞「The Varsity」の編集に加わり、1950年から51年まで同紙の編集長を務めた。在任中、執筆した記事が「Best Editorial Award」を受賞したこともある。

ジャーナリズムの世界にすっかり魅せられたフランクさんは、日系新聞「ニューカナディアン」の英文記事編集のアシスタントも務めるようになる。この新聞は、戦前バンクーバーで発行されていたが、戦時中はBC州カズローの日系人強制収容所で発行されていた。戦後、ウイニペグに移り、発行を続けた。そして1949年になって、バンクーバーに戻ることが当局から許可されたのである。

トロント大学卒業後、週刊誌「マクリーンズ」、英字新聞の「トロントスター」、「モントリオールスター」で編集の仕事に携わる。1970年の大阪万博会場から現地リポートもした。この時は、オンタリオ州政府からの要請で大阪万博・オンタリオパビリオンの副館長に就任したという。
1982年から7年間、センテニアルカレッジで教授として「プリント・ジャーナリズム」という科目の教鞭を執る。
1989年からはトロントで発行の新聞「Nikkei Voice」(日系の声)の編集に携わった。


▲トロント市エトビコーの自宅で語るフランク・モリツグさん(2015年6月に撮影)

終戦から70年たった今、悠々自適のリタイア生活を送っているモリツグさん。あの戦争はいったい何だったのか。
「戦争は、人を殺し、建物を破壊する。心の中に憎しみが生まれるなど、お互いの信頼関係が崩れる。だから、どのような戦争でも、していいという理由はない。戦争を起こすのではなく、他のより良い方法を考えることが人類には必要です」

〈 インタビュア・色本信夫 〉

(2015年7月23日号)



 
 


 
 
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