【戦後70年】

戦前バンクーバーの日系人野球チーム
「朝日」を心のよりどころに生きてきた
日系二世の女性、パット・アダチさん


戦前、バンクーバーの日系人コミュニティーで大人気だった野球チーム「朝日」。日米開戦により「朝日」は解散に追いやられた。今、戦後70年を迎え、「朝日」の思い出に静かにひたっている女性がいる。
パット・アダチさん、この8月8日で95歳の誕生日を迎える。トロント市スカーボロのマッカワン・リタイアメント・レジデンスに住むパットさんを訪ね、「朝日」との関わり、思い入れなどをうかがった。


▲1910年バンクーバーで結成された日系人野球チーム「ニッポン」。のち1914年に「朝日」に改称

1900年前後、BC州では日本からの移民、そして二世の若者たちが増えつつあった。そうした中、日系人野球チーム結成の気運が高まった。1910年ごろ、「ニッポン」が結成され、やがて、1914年に「朝日」と改称されて本格的にスタートした。

「朝日」は、白人チームとの試合を重ねるごとに、日系人コミュニティーで支援者が増加していった。体格の大きい白人チームの選手たちを相手に、バント攻法など巧妙なテクニックを発揮する頭脳作戦を展開、対戦相手を脅かすようになり、これも人気の理由であった。

当時、白人社会から日本人が人種差別される事件が多発していたが、「朝日」チームに声援を送る白人も少なくなかったという。また、1921年には「朝日」チームが父母の祖国日本に遠征して、関西、東京、東北、北海道を転戦。成績は芳しくなかったが、試合のテクニックなどで、日本チームからたくさんの学ぶべき点を得るなど、収穫は大きかった。


▲パット・アダチさん(2015年7月23日、トロント市スカーボロにて撮影)

パットさんは1920年、バンクーバーで生まれる。鳥取県出身の川尻岩一さん夫妻の一人っ子であった。
「父はスポーツ、特に野球が大好きでした。私が幼いころからパウエル球場に連れて行って、野球を見物したものです。ピーナツを買ってくれて、それを食べながら試合に熱中していました」

学校は、パブリックスクール(公立学校)の授業が終えたあと、毎日午後4時から5時半までアレキサンダー・ストリートの日本語学校で学んだ。

「私はロイ山村選手のファンで、朝日の試合にはよく行きました。野球を見るだけでなく、プレイすることにも興味があったものですから、12歳の時にはパブリックスクールの野球試合でショートの守備をしたこともあります」
熱烈なベースボール・ガールであったにちがいない。

だが、1941年12月、日米開戦。翌42年初め、日系人総移動が始まる。「朝日」チームも解散を余儀なくされる事態となった。


▲太平洋戦争ぼっ発により解散を余儀なくされた「朝日」チームの最後の写真(1941年) 

パットさんの家族はバンクーバーでルーミングハウス(貸部屋業)を営んでいたのだが、父岩一さんは連行されてロードキャンプに送られた。当局の監視のもとに道路建設をする労働作業である。これは、カナダ政府による日系人の家族分断政策の一環といわれる。

こうした慌ただしいさなか、1942年1月パットさんはハリー足立さんと結婚した。そして夫ハリーさんは6月にロッキー山脈の西、スローカン日系人強制収容所に送られる。収容者の住む家が不足しているため、その建設を命じられたのだ。8月、パットさんもスローカン収容所に移る。しかし住居は未完成で、テント生活を余儀なくされる。テントの中には、冬、雪の重みでつぶされたものもあったという。


▲BC州内陸の日系人強制収容所に向けて列車で移動させられる人々(1942年)

パットさんの家族は、初冬の11月になって、ようやく家に住めるようになった。ロードキャンプの父親が時々、訪ねてきた。ところが、家といっても簡単でお粗末な造りで、寒い気候に悩まされた。第一子を身ごもっていたが、連日の寒さが体調に影響したのであろう、死産という悲しい結果に終わった。

「そのころ、収容所では女性教師、兵藤ヒデ先生が日本語を教えていました。収容所の子供たちは英語がうまく話せない。と同時に、日本語も学ばなくてはならなかったのです。私は、1943年4月から1年生の子供たちに教え始めました」

1944年、収容所の中で待望の赤ちゃんが授かる。男の子だった。


▲日系人強制収容所(1942年)。この写真はBC州タシメの収容所です

スローカン・バレー(渓谷)には、レモンクリーク、スローカン、ベイファーム、ポポフ、ニューデンバーといった町に日系人強制収容所が点在していたが、どの収容所にも「朝日」の選手が2〜3人は住んでいた。

「それぞれの収容所で、選手を中心に野球愛好家がチームを作りました。グラウンドを整備したり、練習に励んだり・・・止まっていた息吹きがよみがえったようでした。近隣の収容所同士の対抗試合もやりましたよ。監視役のマウンティー(連邦警察)も野球好きのポリスマンが多くて、うまく取りはからってくれました」

戦況の悪化が日本に重くのしかかってきたころ、カナダ政府は日系人に対して、ロッキーの東に移動するか、あるいは日本に帰るかの選択を迫った。バンクーバーなどBC州の元の場所に戻ることは許可しなかった。
父岩一さんはパットさんに、「お前はカナダ生まれだ。カナダの国に所属している。うちの家族はカナダに残ることにする」と告げた。

一家は1945年4月、オンタリオ州ケノーラ(マニトバ州境近くの町)に移転、白人の農場で働いた。しかし火事に遭い一切を失った。途方に暮れた一家は、トロント西郊オークビルに移り、知人のつてで白人ファミリーの家でハウスキーパーの仕事を得る。

1946年、トロント市の西部に小さな家を購入。 パットさんは長男のあと3人の子供に恵まれる。やがて、仕事をしながら、夜間はシェリダンカレッジ・ナイトスクールでコンピューターを学ぶ。45歳になった1965年、ベルカナダ社の財務部門に職を得て、そこで1984年まで19年間勤務する。

パットさんの脳裏には、戦前バンクーバーの「朝日」チームのことがいつも浮かんでくる。日系人収容所から移動した選手たちの行き先はばらばらだ。アルバータ州のシュガービーツ(砂糖キビ)農場、ケベック州、オンタリオ州のトロントなど散らばってしまった。ジョージ・シシドのように日本に帰った人もいる。
日系カナダ人が「故郷」のBC州に帰ることが許可されたのは、戦争が終わってから約4年後の1949年4月のことである。

パットさんには往年の「朝日」の選手たちのことがしのばれる。ロイ山村、ミッキー前川、ケン沓掛、ミキ佐藤、エディー北川、トミー・サワヤマ、マイク丸野、フランク中村、トム的場、カズ&キヨシ菅兄弟、ケイ上西、フランク森次、などなど。この中で、生存している人は、数少ない


▲パット・アダチさんの著書「Asahi : A LEGEND IN BASEBALL」表紙

少女時代から「朝日」に憧憬の念をいだいていたパットさんは、1992年「Asahi : A Legend in Baseball」と題する本を著し、出版した。チーム創立当初からの懐かしの試合風景写真、スナップ、選手の顔写真とプロフィール、寄せ書き、新聞記事の切り抜きなど、1991年までの記録が日英両語で収められていて、興味深い。女性が野球の話題を書いて本にするというのは珍しいといわれる。

2002年5月16日、トロントのスカイドーム球場(現ロジャースセンター)で開催された「ジャパンナイト」で、ブルージェイズ対マリナーズの試合の前に「朝日」の記念式典が行われた。戦前「朝日」の選手だったケン沓掛、ミッキー前川、カズ菅、キヨシ菅兄弟、それにユキ宇野(車いすで参加)の5人が1万7000人の観客が見守るなか、表彰を受けた。この日は、イチロー選手(当時シアトル・マリナーズ)も往年の「朝日」プレイヤーたちを祝福した。


▲「朝日」チームのカナダ野球殿堂入り祝賀式典で往年の選手たちがスピーチをした。(左から)キヨシ菅(演壇)、パット・アダチ(本の著者)、マイク村野、ケイ上西、ミッキー前川、ケン沓掛の各氏

2003年6月28日、オンタリオ州セントメアリーズにある Canadian Baseball Hall of Fame(カナダ野球殿堂)で、「朝日」チーム殿堂入りの式典が執り行われた。セントメアリーズには、「朝日」の元選手ら関係者、日系社会の人々、著名な大リーグ選手らが続々と集い盛大な祝典が繰り広げられた。

パットさんは、2004年、2冊目の本「Road to the Pinnacle」を出した。最初の本の続編で、カナダ野球殿堂のことなども掲載されている。


▲パットさんの2冊目の本「Road to the Pinnacle」

2005年、「朝日」はバンクーバーの BC Sports Hall of Fame(BCスポーツ殿堂)に殿堂入りするという栄誉を得た。ここには、ウェイン・グレツキー(アイスホッケー名選手)、テリー・フォックス(片足のランナー)、リック・ハンセン(パラリンピック金メダリスト)らが入っている。

今年、6月のトロント日系文化会館(JCCC)日本映画祭で「バンクーバーの朝日」が上映されたが、パットさんは満場の観客に向かってスピーチを行い、「朝日」にまつわる話題を披露した(この映画は大好評のため、7月2日、JCCCで再上映された)。

なお、「朝日」チームは、来年(2016年)春のJCCC「桜ガラ」で「桜アワード」を受賞する予定になっている。

戦後70年という節目にあたる今年、パットさんは自らの人生が「朝日」とともに歩んできたという実感が強い。「朝日」とパットさんのつながりについて、一言、コメントをいただいた。
「私は幼い時から野球マニアの父の影響で朝日の選手たちを知っていました。戦争でばらばらになってからも、何十年もの間、ずっと選手たちと連絡を取り合って、何か起きると、私が連絡の窓口になってきました。この素晴らしいレガシー(遺産)を忘れず、いつまでも記憶に残しておきたいです」

〈 インタビュア・色本信夫 〉

(2015年7月30日号)



 
 


 
 
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