【戦後70年】

少女時代の悲惨な思い出ふりかえる
沖縄戦で逃げまどった水薮麗子さん


太平洋戦争で住民の4人に1人が犠牲になったという沖縄。その沖縄出身の女性、水薮麗子(みずやぶ・れいこ)さんを、トロントの北郊マーカム市のお宅に訪ね、悲惨な体験談をお聞きしました。


▲水薮麗子(みずやぶ・れいこ)さん

あの時、麗子さんは沖縄の今帰仁(なきじん)村の仲宗根部落という地区にいた。10歳だった。1944年10月10日、米軍の沖縄空襲が始まったのだ。
今帰仁村は人口3000人余の小さな村で、沖縄本島中部、名護市の西側の半島の海辺に位置する。
その3カ月ほど前の7月、米軍はサイパン島で最後の総攻撃をして日本兵や民間人が「玉砕」、サイパン島は陥落した。続いて日本本土に向かった米軍は、まず、沖縄を攻撃、10月の大空襲となった。

「何度も空襲があって、学校では私たち生徒は防空頭巾(ずきん)をかぶって避難場所に駆け込みました。そして本土から沖縄に兵隊が派遣されてきて、その兵隊の施設として学校が使われることになり、私たちは学校から追い出されて各部落の公民館で勉強するようになったのです」

狭い公民館で1年生から8年生までの生徒が1カ所で勉強する状態で、十分な教育は受けられなかった。その後、空襲はますますひどくなって、学校にも行けなくなった。
麗子さんは、自分の家の近くの畑や森に掘られた防空ごうに、母親と下のきょうだいたちと一緒に避難した。10歳だった麗子さんは長女で、妹1人と弟2人の面倒をよく見た。父親は兵役で沖縄にはいなかった。

「激しい空襲が続いて、里(村)にいられなくなり、山に逃げました。何軒かの家族が集団で共同生活をしていました。それでも食料が必要となる。夜遅くなってから山から里に下りて行って、我が家の畑で野菜やイモを取り、台所で料理をして山に戻ってくる。とにかく、日中は山に隠れていました」

麗子さんには、生涯忘れられないことがいくつもある。
ある日、1歳半の弟を背負って山から里に向かって下りていたとき、空に飛行機が見えてきた。日本の飛行機かなと思い、立って見ていた。果たしてそれは米軍機であった。近くの森に日本兵がいると思ったのか、米軍機は爆弾を落とした。あたり一面に轟音(ごうおん)が鳴り響いた。
翌日、里に下りてみると、畑にものすごく大きな穴が開いているではないか。家の建物と同じくらいの大きさの穴を前にして、爆弾の破壊力の強さをまざまざと見せつけられた。そして「命びろいをした」と、ほっと胸をなでおろした。

「ある時は、米軍機の機銃で撃たれて若い日本人男性が死んでいました。そのそばには、けがをしてうめいている人もいました。私たち一般住民は逃げている最中で、ひん死の重傷者を見ても、助けることが出来る人は誰もいなかった。その人たちのすぐ横を悲しい目で見やりながら逃げていきました。後になって、何かしてあげられたら・・・と悔やまれましたが、あの時点で、正直言って、何も出来なかったです」

1944年11月、マリアナ諸島の米軍基地からB29爆撃機が本土の東京を空襲した。1945年3月に入って、東京、大阪の大空襲をはじめ、日本の大都市から地方都市へと空襲が続く。


▲沖縄の戦闘で、日本兵が潜んでいたほら穴から投降しようと出て来た住民に銃を向ける米兵とこれを制止する米兵(毎日新聞社刊「決定版 昭和史」より)


▲沖縄の多くの住民は捕まれば殺されると信じ、米軍の投降勧告を拒否して射殺されたものも少なくない。救われたとき、誰もが放心状態だった(毎日新聞社刊「決定版 昭和史」より)

1945年3月、硫黄島の日本軍守備隊が玉砕。その直後、米軍は沖縄に向かった。4月1日、米軍が沖縄本島に上陸、地上戦が展開されるようになる。あの戦争で日本国内で地上戦が行われたのは、沖縄だけ。しかも、戦いは壮絶なものだった。

8月6日広島、9日長崎に原爆投下。8月15日、敗戦。戦局のめまぐるしい変動のなか、麗子さんは11歳だった。「戦争が終わった」という知らせを受け、山に隠れていた人たちは里に下りてきた。畑仕事をする人、海に魚取りに行っている人もいた。

「そんなある日、私が家で夕涼みをしていると、突然、アメリカ兵が鉄砲を持って村にやって来て、住民を家から出して、1カ所に集められたのです。3000人余りの村民は一歩も家に入れさせてくれない。着の身着のまま全員がトラックに乗せられ、隣の村に連れて行かれました。狭い家に何十人も詰め込まれ、赤ん坊も年寄りも、押し合い、へし合いでした」


▲米軍は占領した地域の住民を集めて別の地域に集結させた。住民は着の身着のままで、疲れきった表情で移動していった(毎日新聞社刊「決定版 昭和史」より)

麗子さんの仲宗根部落は、米軍が家々にガソリンをかけて全部燃やした。残った日本兵が民家に隠れていると疑って、このようなことをしたのだろうと推測されている。麗子さんは自宅に保管していた幼少のころからの写真アルバムをすべて失った。今でも悔しい思いでいっぱいだ。
米軍は、さらに沖縄独特の大きなお墓「亀甲墓」(かめこうばか/きっこうばか)を一つひとつ開けて、内部をチェックした。「戦争は終わったのに、まだ、そんなことをするのか」と村民は憤った。

「自分の里に帰っても、家が焼かれたため、住む所がない。仕方なく米軍の使い古したテントを拾ってきて、そこで、祖父母、母、幼いきょうだいたちと一緒に暮らしました。アメリカの兵隊もテントに住んでいて、住民が食料などをよくもらいに行ったものです。このころ、父が亡くなったという知らせが届きました」

戦後、麗子さんは日系カナダ人二世の水薮幸治(みずやぶ・ゆきはる)さんと結婚した。幸治さんはブリティッシュコロンビア(BC)州生まれ。日系人強制移動でレモンクリークの収容所に収容された。戦後、家族の出身地の和歌山に移る。17歳のとき大阪に出て、米軍の通訳として勤務。仕事で沖縄に滞在中、麗子さんと知り合い、結婚。1961年、麗子さんは夫と2人の子供(3歳と1歳半)とともにカナダに来て、トロントのハイパーク地区に住まいを構える。

「カナダに来た当時、日本からの新移住者はいませんでした。私は英語が出来ないし、苦労しました。主人はトロント市役所に勤めてコンピュータープログラミングの仕事をしていました。そのかたわら、一世の人たちが推進するトロント日系文化会館(旧館)の建設基金募金運動を手伝っていました」

幸治さんは、日系文化会館が完成したあとも同会館の運営に協力。また、33年間にわたりトロント日本語学校の活動に貢献した。1988年に決着したカナダ政府に対するリドレス(日系人戦時補償)運動にも力を注いだ。麗子さんは、これらの夫の活動を積極的に手伝った。幸治さんは、2008年、79歳で他界した。


▲亡き夫、水薮幸治さんの遺影のそばで、麗子さん

今は、トロント郊外で子や孫に囲まれ平穏な暮らしをしている麗子さん。今夏は久しぶりに沖縄に里帰りする。戦後70年を振り返って、ひとこと感想を述べていただいた。
「沖縄で戦争というひどい目に遭ってから夫に連れられカナダに来ましたが、カナダは治安はいいし、住みやすいし、天国のような国です。小さいときに見たこと、されたことなど、忌まわしい出来事は一生忘れません。最初はアメリカが悪いと思っていましたが、もともと戦争を始めたのは日本だった、真珠湾攻撃がなかったら、あのような悲劇は起きなかったと考えるようになりました」

〈 取材・色本信夫 〉

【編集部より】広島平和記念資料館ルポ/トロント在住の日系人被爆者、大堀ジョーさんをインタビューした「e-nikka」の記事(2014年11月20日号)に興味のある方は下記をクリックしてお読みください。

http://www.e-nikka.ca/Contents/141120/topics_01.php

(2015年8月6日号)



 
 


 
 
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