【戦後70年】

大空襲で東京から長野に疎開、苦労の日々
音楽で心を癒やされた川邉ハリー平八郎さん


1945年8月15日に太平洋戦争が終わって、あれから70年がたった。戦後、カナダに移住した日本人たちの中には、敗戦祖国のさまざまな思いを胸に刻んで、新天地でそれぞれの人生を歩んできた人が多い。
トロントの川邉(かわべ)ハリー平八郎さん、76歳。川邉さんは1939年(昭和14年)1月、東京都新宿区早稲田鶴巻町の出身。戦時中のことを尋ねると、記憶も鮮やかに答えてくれた。


▲川邉(かわべ)ハリー平八郎さん

「6歳になった1945年、空襲で新宿区は 危険だということで、板橋区に疎開しました。教育熱心な母といっしょに、夜、勉強していると空襲警報が発令。勉強を中断し雨戸を開けて下町の方角を眺めたら、真っ赤な火の海でした。3月10日のB29による東京大空襲です。花火が上がっているように夜空が奇麗だったのを覚えています」

その板橋区も空襲で焼夷弾(しょういだん)攻撃を受けるようになった。明くる日、近所を見てまわると、大きなショックに襲われた。
「爆弾の直撃を受けた人の死体が、吹き飛ばされて、木の枝に引っかかっているのを見たのです。これは一生忘れることができない光景でした。あとで、334機のB29 がじゅうたん爆撃をして10万人の死者が出たことを知りましたが、戦争とはいえ、こういうことをやってはいけない」


▲東京大空襲の惨状

そんなことがあって、3月半ばに、急きょ、長野県湯田中に縁故疎開をすることになった(縁故疎開とは集団疎開と違い、個人的に疎開することをいう)。長野市から北に上がった志賀高原の入り口にあるこの町で一軒家を借りた。家族は母、祖父母、川邉さんと弟2人(5歳と3歳)の6人だった。父は兵隊に出ていた。

「下の弟は体が弱くて、彼だけお粥(かゆ)を食べていました。それがうらやましかった。僕らは麦飯で、千曲川の川べりで芹を(せり)を摘んできて、おかずにしていました。我が家は裕福でお金には困っていなかったのですが、なにしろ食料不足で、買う食べ物がなかった」

湯田中の国民学校一年生、川邉さんは、学校ではろくに勉強もできなかったと回顧する。
「僕らは松の根っこ掘りをやらされました。松の根から作られる松根油(しょうこんゆ)は自動車とか飛行機のエンジンに使えると言われたけど、結局、何の役にも立たなかったようです」

7月、一学期の通信簿をもらう。
「当時の通信簿は、成績が、甲・乙・丙・丁で評価され、通信簿の表紙の裏には教育勅語が載っていました」


▲ラジオで天皇陛下の玉音放送を聞く人々(1945年8月15日)=毎日新聞刊「決定版 昭和史」より 

8月15日。生徒たちは夏休みでも学校には行っていたが、この日、先生から「今日の正午、大事な放送がある」と言われ、自宅で国民型ラジオの前にすわった。
「天皇陛下の玉音放送が流れたのですが、ぜんぜん聞き取れませんでした。録音は悪いし、ラジオは古くて性能がよくなかった。陛下のおっしゃるお言葉の意味がまったく分からず、大人たちがラジオを聞いて泣いているのを見て、どうして泣いているのか理解できなかったことを覚えています」

あとになって、大人たちから「然れども朕(ちん)は時運の趨くところ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かむと欲す」という有名な陛下のお言葉を聞かされた。ポツダム宣言を受諾、日本は戦争に負けたのだ。親の表情は、やっと来たるべきときが来たという感じだったという。


▲ポツダム宣言受諾を伝える新聞

信州(長野県)から東京・新宿区に引き揚げて来たのが、9月。 「とにかく、真っ平らの焼け野原で何もなかった。うちの近くの早稲田大学も理工学部は焼け落ちていました。富士山がどこからでもよく見えたのが、強烈な印象として残っています」

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戦争は終わった。敗戦による虚脱状態の中で、国民はなにか希望の糸口はないか、探し求めていた。日本人のすさんだ心に元気を与えてくれたもの、そのひとつに歌がある。川邉さんはどの歌がいちばん記憶に残っているだろうか。

「やはり、並木路子の『リンゴの唄』とNHK連続ラジオ放送劇『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』、それに少し遅れて菊田一夫のラジオ放送劇『君の名は』の主題歌でしょうね」

並木路子の歌う「リンゴの唄」は、歌詞の中に「リンゴの気持ちはよくわかる」とある。この歌詞と底抜けに明るいメロディーが日本中の焼け跡に流れた。川邉さんは、幼いながらも、「赤いリンゴに くちびる寄せて〜 だまって見ている 青い空♪」とよく口ずさんだものだ。

「驚くなかれ、終戦後2カ月足らずの10月10日に、 『そよかぜ』と題する映画が完成して封切られたのです。松竹の佐々木康監督の作品で、照明係の女の子がスターに出世するストーリーで、並木路子がヒロインを演じている。その主題歌となったのが『リンゴの唄』です。この歌のおかげでどれだけ多くの人々が励まされたことか。日本人の生命力というか、バイータリティーは捨てたものではないですよ」


▲高校時代、ウクレレを弾く川邉さん

もともと音楽に対する興味は強く持っていた川邉さん。学校時代はさまざまなジャンルの音楽に関わった。
「小学校時代は主に唱歌・童謡、中学はクラシック曲一辺倒、高校からはアメリカンポップスとジャズですね。楽器もおもしろくて、いろいろやりました。ピアノ、ハーモニカ、ウクレレの3つの楽器を12歳の年に始めるとともに、当時、東京の4大教会の一つといわれた本郷弓町教会の聖歌隊の一員として国立音楽大学作曲科の岡本敏明先生に音楽の一から教わりました」

その後、トランペットやキーボード、ビブラホンなども演奏するようになる。ジャズは英語の歌詞でじゃんじゃん歌いまくる。 ジャズの合間をぬって、歌声喫茶や歌声酒場に出向くこともあった。

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1968年5月28日、川邉さんは妻正子さんと子供を連れてカナダに移住、トロントに居を構える。
「移住した理由は、学校を卒業していなかったことで就職に不利になると思ったからです。僕は早稲田大学法学部に入学が決まっていたけど、バンド仲間と銀座での仕事に忙しくて授業に出なかった。また、公害で隅田川の汚染がひどいのを見て、こんな所で子供を育てたくないと考えたからです。当時、カナダはスポンサーなしの移民を受け入れる政策をとっていて、僕は職業訓練所で電気とガスの講習を受け免許を持っていたので移住許可がすぐ下りました」

トロントでは、ウェルダー(溶接士)そして工場長、また、通訳、観光ガイドとして活躍してきた。


▲「JCスターズ」のコンサートでトランペットを演奏する川邉さん(中央)

日系コミュニティーでは、最初、アコーディオンの片山博さんと旧トロント日系文化会館におけるボランティア音楽活動に携わる。その後、ダンスバンド「JCスターズ」を宮下喜代治さん(クラリネット/テナーサックス)、千葉豊さん(フルート)と結成。そのすぐあと、ハワイアンバンド「Alley Cats」(アリーキャッツ=野良猫ども)を結成している。

また、ミシサウガ市営のジャズ教室にトランペットで参加、ブラマリー市コンサートバンドにトランペットメンバーとして参加した。
トロント歌声喫茶の会では、12年間にわたり伴奏を担当して、現在にいたる。トロント日系文化会館のウクレレ教室では3つのクラスを受け持っている。

世界のあちらこちらで紛争や戦争が絶えない状況のなか、平和なカナダに住んでいて、歌・音楽が人々の心を癒やす原動力になると考えるかを尋ねてみた。
「音楽が人の心を癒やす原動力となり得るのは確実です。しかし、歯がゆく、また、悲しいのは、人間という動物は愚かな戦争を繰り返すことです。太古の昔からの経験を通して、何も学んでいないという事実です」

〈取材・色本信夫〉

(2015年8月13日号)



 
 


 
 
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