【サマー・ルポ】

バンクーバーアイランドの日系人墓地巡り
スティーブストン仏教会の墓参・盆供養ツアーに参加


〈 ビクトリア市 サンダース宮松敬子 〉

今私が住んでいるバンクーバーアイランド(以下=VI)には、いわゆる「日系人のお墓」というものが、そこここにあることを以前から薄々とは知っていた。
しかし詳細はすぐにはつかめなかったのだが、8月のお盆が近づくにつれ、本土のリッチモンド市スティーブストン(Steveston)にある浄土真宗本願寺派仏教会(http://www.steveston-temple.ca/)の生田真見(いくた・しんけん)開教使が、年間行事としてそのお墓を回りお盆の供養をすることを知った。

仏教徒ではない私は、トロントでは余りなじみのなかった「お盆の行事」だったが、ここVIで思わぬ経験ができたことに感謝し、その詳細をリポートしたい。



スケジュールは以下の通りで、合計6カ所の日系人墓地を訪問。
【一日目】
ナナイモ(Nanaimo)墓地、ナナイモに住む福井さんのお宅での供養、カンバーランド(Cumberland )墓地、ポートアルバーニ(Port Alberni)墓地
【二日目】
チェマイナス(Chemainus)墓地、ダンカン(Duncan)墓地、ビクトリア市のロスベイ(Ross Bay)墓地

本土のスティーブストンからは、前日に車ごと船に乗ってVIに渡って来た4人(生田開教使、12歳の娘さん、ご母堂、仏教会会長の Bud Sakamoto 氏)、ビクトリア市からはカナダ人の信徒3人と私たち夫婦の5人で、合計9人が二日間のお盆ツアーをご一緒したのである。

この島には、知られているだけでも今回訪れた6カ所の墓地があるが、まだ過去に日系人が住んでいたと思われる場所には、埋もれたお墓が幾つかあることは容易に考えられる。
なぜこれほどの墓地が存在するのかは、この島特有の日系人史があることを知らなければならない。

西海岸は日本から一番近いことが理由で、19世紀の半ばごろから日本人がこの地に渡って来ており、公的には、長崎県出身の永野万蔵が日系移民第一号といわれ、1877年(明治10年)にカナダ本土のニューウエストミンスターに到着したという説が定着している。
これは1977年のカナダ日系移民百年祭の折に承認され、ロッキー山脈連峰の Owikeno Lake 近くにある1,968メートルの山が「Mt. Manzo Nagano」と命名されてもいる。

しかし実をいうと、万蔵の到着した場所も年月もいろいろな説があり、第一歩はビクトリアであったとか、到着年は1867年、あるいは1875年ともいわれているのである。
だが、いずれにしてもこの年代前後から、かなりの日本人がVIや本土にやって来て、周辺で働き、この地に骨を埋めた人たちがいたことになる。

いろいろな理由で日本に戻った人もいたが、ほとんどは漁業や木材関連の仕事に従事し、また島の中ほどには大きな炭鉱もあったため、鉱夫として働いたり、製紙工場で仕事をする者も多数いたようだ。


▲「 Gateway To Promise 」の表紙

そうした日系人の歴史、特にVIに絞っての日系史については、2012年にビクトリア在住の歴史家であるカナダ人夫妻、Gordon & Ann-Lee Switzer が、多くの資料に加え、足で歩いて得た情報、末裔(まつえい)の人々へのインタビューを試みて一冊の本にまとめ、「Gateway To Promise Canada’s First Japanese Community」(TI-JEAN PRESS 刊)と題して上梓(じょうし)した。

【一日目】8月8日(土)
ナナイモ日系墓地
2日間にわたるお盆ツアーの開始は、ビクトリアから北へ車で1時間半ほど行った、島の中ほどに位置するナナイモ(Nanaimo)という町にある墓地から開始された。
きれいに刈り込まれた芝生の一角に、10個のグラウンドに埋められた日系人の名前のある墓が散見される。


▲ナナイモにある日系人のお墓

このツアーを通して一貫して行った手順は、まず、墓石の周りの掃除をし、その前に折り畳み式の小さなテーブルを置き、お釈迦さまが描かれた盾を真ん中に、ろうそく、お香のケース、香炉、お鈴(りん)を前列に並べるのである。いつも生田開教使の12歳の娘さんが手際よく手伝っており、かいがいしい姿が印象的だった。


▲簡易祭壇

引き続いて、開教使がその地における日系墓地の成立の歴史を話し、重誓偈(じゅうせいげ)と呼ばれる経文の中からその場にふさわしい個所を選び読経をするのに皆が和し、その間に参列者が一人ひとりお焼香をするのである。


▲お焼香

この墓地訪問の後には、ナナイモ在住の福井さん(89歳)という日本人のお宅に寄り、近隣に住む日系人数人も集まった中で一連の供養を終えた。
カナダに来て60年近いという福井さんの庭には、大きな鯉(こい)が3匹も泳ぐ池や見事な盆栽が並んでおり、日本への郷愁がこうした形で表れていることに心が打たれた。


▲ナナイモの福井さん宅の見事な盆栽

「また来年!」と言って別れた後は、更に一路北に車を走らせ、カンバーランドを目指した。

カンバーランド墓地
カンバーランド(Cumberland)の町では、日系人墓地の管理に市が大変に力を入れていると聞いていたため、期待は大きかった。我々一行を迎えてくれたのは女性町長のレスリー・ベアードさんであった。

この日は年一回開催されるバイクラリーのお祭り日で、大勢が自慢のバイクを走らせて意気揚々とやって来たのだが、あいにくの雨で一つ盛り上がらなかったようだ。


▲生田真見開教使(右)とLeslie Baird カンバーランド町長

しかし町長さんは、しっかりとそのお祭りの成り行きを見守りながらも我々をランチに招待して下さった上、食後は、同市で町会議員をしている日系4世の Roger Kishi さんも同行して墓参した。空を突くほどに高い杉の木に囲まれた墓地はきれいに手が施されている。


▲カンバーランドの「日系の墓」で読経する生田開教使

この一帯は炭鉱の町として知られた場所で、「カンバーランド・コール」と称して多くの石炭を産出した歴史がある。 そのため働き口を求めて、日本や中国から多くの移民が集まった。時がたつとともに家族を呼び寄せて定住し、また彼らを対象にした商店、風呂屋、日本語学校も出来たりするなど、かなりのコミュニティーが形成されていたという。

だが、カナダ人の炭鉱主たちは、日本人、中国人たちの足元を見ており、白人の鉱夫の半分の低賃金で働かせていた。 Dunsmuir ファミリーはその事業で大儲けした一族で、今は観光名所になっているお城まがいの大邸宅をビクトリアに建築した。


▲お城まがいの大邸宅 Graigdarroch Castle (ビクトリア市)

経済状況に左右されながらも劣悪な条件のもとで働き、またカナダ政府によって移民への規制や法律が変更されるたびに生活が翻弄(ほんろう)されたものの、第二次世界大戦がぼっ発し日系人強制収容所に送られるまでは定住をしていた。
今はそのコミュニティーがあった場所を、カンバーランドの多くの住民や団体の協力によりエコ・パークとして復活させ、歴史を埋もれさせない努力を市が先頭になって行っている。

ポートアルバーニ墓地
次の目的地はカンバーランドから南に下がるものの、かなり山の中に入るポートアルバーニ(Port Alberni)という小さな町である。雨は午後になるに従って土砂降りになり、ヘアピンカーブのハイウエーは運転に慣れた者でも気が抜けない。
だが、墓地に到着してみると雨も小降りになり、まずは濡れて苔(こけ)むした墓地の掃除から開始した。


▲まずは墓石の周りの清掃から始める

ここで目を引くのは、1992年8月に建てられた、見るからに新しい墓石である。戦時中に、日本人/日系人が強制収容所に送られたことを不当として戦った日系カナダ人リドレス運動で、カナダ政府から謝罪と補償を受けた時の補償金を元に、多くの日系団体や家族も協力して建立したものだという。

「日系カナダ人合同慰霊碑」と彫られた碑の前には、過去に起こったこの負の歴史を簡潔にまとめて刻まれた石がある。
当然ながら、戦中戦後は放置されたままで誰も手入れをしなかったわけだが、この碑を建設するにあたり、以前、埋葬されていた人々を集め名前を彫ったのだ。
交通の不自由な時代に、こんな人里離れた場所で生き、働き、そして亡くなった人々の思いはいかばかりだったか、想像するだけで胸の詰まる思いがする。

【二日目】8月9日(日)
ツアーの二日目にあたる9日は、昨日とは打って変わり、よく晴れた日曜日であった。

チェマイナス墓地
まずは町中に点在する壁画によって、周辺の歴史を知ることが出来ることで有名な町チェマイナス(Chemainus)から開始した。
観光でここを訪れた日本人は多いだろうが、中心地から少し外れた一般カナダ人の墓地の一角に日系墓地は存在している。

ここは昨日の訪れたポートアルバーニ墓地の外観と全く同じ造りで、やはりリドレス運動によって得た資金をもとに建立されたのだ。
多少違うのは発掘された墓石が両側に幾つか置かれていることだろう。


▲正面から慰霊碑を見る

生田開教使は「こうして整備された墓石を見ると、当時の世相や人々のメンタリティーが今とは全く違っていたことを感じる」と言い、お盆の時期に今日のように人々が集まり、逝(い)った方々に思いを馳せて祈ることが出来るのをとても嬉しく思うと真摯(しんし)な気持ちを吐露された。

ダンカン墓地
ビクトリアに到着する前の最後の墓参は、ダンカン(Duncan)という町の Mountain View Cemetery の一角に集まる日系墓地であった。
先の二つの墓地と違って、ここはある一定の地域に幾つものお墓が散らばって位置しており、ざっと数えただけで25,6はある。だが年月を重ねていることが一目で分かるオリジナルのものばかりで、年と共に大木となった木のそばの墓石は根に押されて今にも倒れそうだ。


▲ひび割れがいっぱい、古い墓石

なぜこうした古い墓石が存在するかは、周りの事情が関係している。
それは、日系人墓地のすぐ隣りにキリスト教(メソジスト教会/合同教会)のお墓があるため、彼らによって、破棄や放置されることなく長い間守られていたからだ。

すでに慣れ親しんだ順を追って参加者のお焼香が始まった時、予期しなかった嬉しい出来事が起こった。
我々のお盆ツワーのことを聞きつけたこの地域に住んでいる国際結婚をしている家族の方々が、子供さんたちを連れて10余人も参列してくれて、急ににぎやかな集まりになった。

生田開教使は、その子供たちを集めて「井戸の中の月」の訓話を披露した。
「ある夜、井戸の水に浮かぶ月を見たサルは気の毒に思い、仲間を集め尻尾(しっぽ)をつなぎ下に降りて月をすくい上げようとした。しかしそれは水に映える月で、本物は空にあることに気が付いた。しかし時すでに遅しで、サルたちは井戸の中にぶら下がったまま戻れなくなってしまったのだ。そこに丁度お釈迦さまが通りかかりサルたちを助け出した。サルたちは大喜びしたが、お釈迦さまは助け合った行為は素晴らしいと誉(ほ)めながらも『何が本物で何が偽物かを見極める目を持つことはさらに重要だ』と説法した」
大人にも耳が痛い話ではある。


▲神妙に訓話を聞く子供たち

ビクトリア市ロスベイ墓地
さて最後の墓参は、ビクトリア市の最南端に位置するロスベイ(Ross Bay)墓地。ここには1887年から1942年までに葬られた日系人150人余の墓石があるのだが、そのうち約40ほどは1歳未満で亡くなっている子供であったことが読み取れる。

また、ここは他の墓地のように一カ所に集まってはおらず、広い地域のあちらこちらに散らばっているのが特徴である。その中で一番日系人の墓石の多い所に、「日系カナダ人 合同慰霊碑」と彫られた黒い御影石の立派な碑があり、人目を引く。

1900年の初めには、暴風雨によって墓石の多くが近くの海に流された悲劇が起こったりもしたが、そうした長い歴史を踏まえ、日系人を中心とした「懸け橋」というプロジェクトによって、1999年にこの碑が建てられた

今回のお盆ツアーで、ここに到着するまでに回った北方の町々と比べれば、ビクトリアの日系人(日本からの移住者も含め)は確かに多く、参列者は優に50人以上であった。
毎年の行事は、三、四世の日系人やカナダ人会員が多い「Victoria Nikkei Cultural Society」と、日本からの移住者が中心の「 日本友好協会」、加えてこの墓地を守る「The Old Cemeteries Society 」が協力して行う。


▲永野つやと娘ハルの墓石

この墓地で特に記したいのは、御影石の碑からかなり外れた場所になるが、移民第一号といわれる永野万蔵の2番目の妻つや(彼は3回結婚している)と7カ月で死亡した娘ハルが一緒に埋葬された墓石があり、「1893年」と彫られていることだ。
人によっては、永野万蔵もここに埋葬されていると信じる人もいるが、彼は故郷の長崎県・口之津村(くちのつむら)にお墓がある。
付随ながら、ここにはビクトリア出身の画家・文筆家として有名なエミリー・カーのお墓も存在する


▲お盆のお供えもきれいに飾られた

供養は午後2時半から開始された。まず生田開教使がテーブルに置かれているキュウリとナスのお供え物の由来について「キュウリは足の速い馬を、ナスはゆっくり歩む牛を象徴している。お盆で先祖の魂がこの世に戻るときは馬に乗って早足に、またあの世に帰る時には牛の背に乗ってゆっくりと戻るとい意味があるために二つ野菜が使われる」と説明し参列者の笑いを誘った。


▲お焼香をつぎつぎに行う

供養の手順は今までと同じで、和して祈る重誓偈の間に参列者はお焼香を済ませるが、その後には生田開教使の日英両語によるユーモアを交えた話が続いた。
「お盆とは、亡くなった多くの人たちを忘れないためにある行事で、今、自分がここに生きているのは、人間の命の連鎖によるお陰であることに感謝しなければならない」とし、ある訓話を紹介した。

「お釈迦さまの弟子の一人に、冥想で有名な目連尊者(もくれんそんじゃ)という人がいた。その母親は生前大変に息子を可愛がったが、お金に執着し、余り人には施しをしなかった。
母の死後、神通力を得た目連尊者は、あの世で母がどうしているかとのぞいてみると、餓鬼界に落ちて苦しんでいるのを発見した。そこにいる死者たちは口が小さく物を十分に食べることが出来ず、目連尊者が食べ物を口に運ぶとすぐに火となって燃えてしまうのだ。
そこでお釈迦さまに理由を訊ねると、『生前お前の母は人に施すことをしなかったからだ。お前一人で救うことは出来ないので、修行僧が厳しい修業を終える7月15日(昔はこの日がお盆)に、彼らの徳をたたえ食事を施せば喜んで一緒に祈ってくれるだろう。これによって皆が極楽に行ける』
これを聞いた目連尊者はその日、大法要を行い、功徳を行ったため母親たちは天上界に行けたのだ」

生田開教使は続けて「その喜びのために踊ったのが『盆踊り』の始まりですから、今日は皆さんも用意された美味しい食事を食べて最後に盆踊りをして楽しんでください」と締めくくった。
参列者たちは、法要後に墓地の向かいにある Ross Bay Villa と呼ばれる歴史的建造物の前庭を借りて開かれた集いに参加した。


▲盆おどり風景

こうして我々一行9人も、二日にわたるお盆ツアーを無事に終了した。

(2015年8月20日号)



 



 
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