バンクーバー日本語学校並びに日系人会館理事長
水田治司氏に在外公館長表彰状授与される


 在バンクーバー日本国総領事公邸で2月3日, バンクーバー日本語学校並びに日系人会館理事長の水田治司(みずた・はるじ)氏に対する在外公館長表彰状授与式が行われ、岡田誠司バンクーバー総領事より表彰状が授与された。
 水田氏の日本語学校での活動を通じ,当地において日本語教育の振興,日本文化の伝承,日系コミュニティーの発展及び日加間の友好促進に大きく寄与したことに敬意を表しての表彰である。


▲在外公館長表彰状を授与された水田治司氏(前列右から2人目)。日本語学校関係者と共に記念撮影。後列左端は岡田誠司バンクーバー総領事(写真提供:在バンクーバー日本国総領事館) 

 水田氏は昭和8年(1933年)4月14日生まれ。父親の水田治三郎氏は1906年5月、16歳でカナダに渡り、BC州レベルストークで線路工夫の仕事に従事。1926年に結婚し1933年に長男の治司さんが誕生した。

 当時、日系人の子弟は日本の学校で勉強させるのがならわしであり、水田さんも学齢期に入る1年前に家族そろって帰国。1938 年5歳のときだった。母親の出身地、和歌山県三尾村で暮らし、小学校から高校までの少年時代を過ごす。高校では機械工学を学び、後に父親の出身地である大阪で松下電器に入社した。

 その後1955年、再びカナダに戻りバンクーバーに落ち着く。22歳の時であった。その当時のカナダではまだ人種差別がはげしく、仕事をさがすのは大変な時代であったが、面倒を見てくれた親戚が「まず、英語の勉強やカナダのしきたりなど学びなさい」ということで書生としてユダヤ系カナダ人の家庭で1年を過ごした。

 そこの家族はとても親切な人たちで、日本人は雇わないという会社や、日本人には家を売らないという人たちにも交渉するなど、親身になって生活の援助をしてくれた。また、事業を始めるときには資金を出してくれた。技術系の仕事をしたくて、自動車修理工場に勤めたが、意見が合わず仕事を辞め、いっそのこと自分でやってみようと修理工場とガソリンスタンドの経営を始めた。その後、日本への木材輸出業にも関わるようになった。

 バンクーバー日本語学校との出会いは、長女エドナさんの入学がきっかけとなり、その後、日本語学校や日系コミュニティーでのボランティア活動が始まった。バンクーバー日本語学校並びに日系人会館理事長を3期、また、BC州和歌山県人会会長も3期務めている。

 水田氏のボランティア活動では、自分の生きてきた時代や背景、つまり帰加二世の現実の姿を残したいと、機会あるごとに当時の様子を伝えている。【注】帰加二世とは、「帰化二世」ではない。カナダで生まれ、いったん日本に戻り、戦後再びカナダに帰ってきた人たちの特殊な時代の表現である。

 2012年11月のバンクーバー日本語学校3重慶事祝賀会で、水田氏は1952年に再開された日本語学校の当時の様子を次のように語っていた。
 「日本語学校再開60年に関して、当時41カ所もあった日本語学校の中で、この学校だけ残ったのですが、それは戦時中、自分たちの財産が政府に没収され迫害の中にいて苦しかった時代においても、日本語学校を守るために関係者が奔走してくれたからです。強制移動させられたときでさえ、ここの財産を守ろうとがんばったのです。そのおかげで、この建物だけが日系人に返済され、1952年に再開して今はこのような立派な学校になったのです」


▲バンクーバー総領事館開設125周年記念講演会で講演した水田治司氏(左)と岡田誠司総領事(2015年3月28日)撮影=妹尾翠

 また、バンクーバー総領事館開設125周年の記念講演「二つの歩み〜日本外交と日系人の遺産〜」と題する同総領事館主催のフォーラムの最終回でも、日本外交と日系人の歴史について岡田誠司総領事の講演に続き、水田氏が講演を行った。

 水田氏は、当時の日本語学校は領事館との関係は緊密で、各領事が監督、顧問などに位置づけられていたこと、毎日意味も分からず読んだ教育勅語が今もこの学校に残っていて英語版まで保存されていたことを語った。日本人は就職が難しい時代であったが、製材所では日本人を雇ってくれ、寮もあって、寝る場所、食事は保証されていたので「お助けビル」と呼ばれていた、家のない人はスキナーというイカダを組んで住めるようにしたスキナーを住居にしていた、ラッコの毛皮を取る仕事をする人たちは、夜はボートに寝泊まりしたことなど、興味深い話を披露した。

 当時はガーデナー業が多く、稼いだ金を日本に仕送りしていた。300ドルを目標にしていたが、1日10時間働いて1ドルしかもらえないので、休みもなく働いていた。15〜16歳でカナダに渡る女性が多かったが、住み込みの週5日制の仕事で家族の一員として扱われ、パーティーなどでは、家主から「私の片腕です」と紹介された。これは勤勉・まじめさ・信頼をアピールするチャンスだった。こうした時代に水田氏は民間親善大使の役目を果たしていたことなど、興味ある内容を披露した。
水田氏は現在も精力的に日本語学校や日系コミュニティー活動にたずさわっている。

 水田氏は2007年に自叙伝「カナダ移民の子──帰加二世物語」を出版した。和歌山県立文書館には水田氏の作成した三尾村からカナダへの初期の移住者名簿や現地での住居地を示した地図などが移民資料として保管されている。

〈リポート・妹尾翠〉

(2016年2月18日号)


 



 
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