「赤毛のアン」作者モンゴメリーの苦悩
人生最後に過ごしたトロントの家で自殺


〈 オンタリオ州ロンドン市 ウィルソン夏子 〉


「ああ、人生がこのような苦しみと惨めさで終わろうとは」

 これは、1941年7月8日、ルーシー・モード・モンゴメリー(Lucy Maud Montgomery)の日記に書かれた文である。この一行から、私たちは、小説「赤毛のアン」の作家が亡くなる9カ月前に、すでに生きることに絶望していたことを知る。


▲Lucy Maud Montgomery

 この作家の命日は、1942年4月24日である。私はこの三月、トロントを訪れ、彼女が死を迎えた最後の家の付近を歩いて、作家の命日をしのんだ。時折、太陽も出てきたが、その日はまだ小寒い日だった。私はユニオン・ステーションの観光案内所で、電車による行き方を聞いた。住所は、210 Riverside Drive, Toronto である。私は、40代半ばの女性のデスクに行った。

「ここへはどうやって行くのが、一番便利でしょうか。L. M. モンゴメリーが住んだ最後の家なんですが・・・」
 私は地図を広げ、トロントの西の方に位置する目的地を示した。
 すると、その女性は言った。
「あのね。私は、この仕事を20年以上やってるけれど、モンゴメリーのその家のことは聞いたことがないわ。行きたいっていうあなたの気持ちは分かるけれど、残念ながら今は消滅して、何も残ってないのよ」

 それで、私はハンドバッグから資料を取り出し、「実はですねえ」と説明することになった。
「モンゴメリーは、1935年春から1942年の春まで、つまり、60歳の時ここに移り、67歳で永遠の眠りにつくまで、7年間トロントのこの家に住んでいたそうなんです」
 そして、私はつけ加えた。
「観光局にお勤めの方にとって初耳なのは、この家はオンタリオ州の史跡に指定されていないからじゃないでしょうか」

 彼女が、私の言うことを聞いてくれて、助かった。彼女は、あるブログを見つけ、家の写真を見ると、どうやらこの家は現存しているらしいと納得してくれた。
「ここで働いていると、毎日、何か新しいことを学ぶのよ」と言い、親切に行き方を教えてくれた。

 トロントの中心街クイーン通りから、西方向に走る501番のストリートカー(市電)に乗った。30分ほど乗ると、サウスキングスウエィ(South Kingsway)に着いた。


▲TTCストリートカーのサウスキングスウエイ停留所


▲この道路標識を追って歩く

 ハンバーリバー(Humber River)の川沿いにサウスキングスウエイ通りを歩いていると、5、6分ほどで立派な邸宅が並ぶゆったりしたリバーサイド通りに来た。人は歩いておらず、車も5分に一台といったほどの閑静な住宅街だ。川沿いに並ぶ家は、偶数番号なので、作家の家も川添いにあるはずだ。


▲モンゴメリーが晩年に暮らした家

「モンゴメリーの家は、ここにあったんだ!」
 現在の家の外観は異なってはいるが、家の骨格などは昔のままのようである。作家は、ここで最後の3冊の小説を書いた。

 現在は個人の家になっているので、私は写真を撮るのが、後ろめたいような気がした。伝記に掲載されている当時の家のスケッチと比べてみると、現在の家は、彼女が住んでいた当時のチューダー様式ではない。しかし、玄関の位置や窓の位置などは全く同じだった。


▲家の玄関 

 モンゴメリーのアルバム集(Edited by Kevin McCabe, Fitzhenry & Whiteside, 1999)には、この玄関口のそばで立っている正装した作家の写真がある。

    ○    ○     ○

 そもそもモンゴメリーが、プリンス・エドワード島(PEI)からオンタリオ州に移住することになったのは、結婚がきっかけだった。彼女はユーアン・マクドナルドと結婚し、夫は牧師としてオンタリオ州に赴任したからである。
 以後、オンタリオ州の2カ所の教会で牧師を勤めたが、彼はある精神療法が必要となり、牧師を辞めることになった。そして、家族が落ち着いたのが、トロントにあるこの家だった。

 不動産屋に案内され、この家を初めて見た時、モンゴメリーは大変気に入った。裏手にはハンバーリバーが流れており、対岸には森があり、天気のいい日には遠方にオンタリオ湖も見えるという位置にあった。
 購入すると、「もうこれ以上、引っ越すことはないわね」という意味で、この家を「Journey’s End」(旅路の果て)と名付けた。そして「ここに落ち着いて、また新しい生活をはじめましょうね」と意気込んでいたのだ。


▲モンゴメリーが裏庭から見たかもしれないハンバーリバー(3月の風景は、まだ寒そうにみえる)

 しかし、次第にこの意気込みは消えていった。夫のうつ病がひどくなりはじめたこと。長男の将来が心配であること。冷酷な批評家たちに悩まされたこと。かつ、経済的にも不安定だと感じていたこと。これらのことが重荷となって、モンゴメリーは不眠症に陥っていく。

 これらの内容を我々が知るのは、モンゴメリーの日記が刊行されてからである。2004年に出版された5巻目は、最後となる7年間の日記である。ここには、落ち込んで行く作家の精神状態が書かれている。日記には、常用したとみられる睡眠薬の名前もいくつか記入されていた。


▲モンゴメリーの日記の5巻目

 1939年まで、日記はぎっしりと書かれている。ところが、1940年の日記はなく、白紙である。翌1941年には、一行だけ書かれた。このエッセーの冒頭に引用した7月8日の日記。「ああ、人生がこのような苦しみと惨めさで終わろうとは」という、詩のような文である。

 この後に来る日記の日付は、1942年3月23日になっている。
「以来、私の人生は、地獄、地獄、地獄となった。理性は行ってしまった・・・・・・私が生き甲斐にしたすべては、去ってしまった・・・・・・その世界は狂ってしまった。私は、自分の生を終えることになるだろう。神様、どうかお許し下さい。私が、どんなにひどい立場にいるかということは、誰も夢にも思わないでしょう」

 これが、モンゴメリーの日記の最後の文となった。「私は、自分の生を終える」という文は、自殺を意味している。そしてこれを書いた翌月、つまり1942年4月24日、彼女は、亡くなったのである。

 死因について、次のような状況が、ルビオ女史の伝記に書かれている。その日、お手伝いさんの通報で、家庭医とスチュアート(医者になったモンゴメリーの三男)は、すぐにモンゴメリーの家に急ぐ。
 二人は、ほぼ同時に家に到着し、死体を見た。その時、どちらも、彼女の死を自殺とみなした。が、家庭医は、残された家族のことを考え、死亡証明書の死因は冠状動脈血栓症と書いた。検死はされることはなかった。

 とにかく、このような事情で、一般の人は、彼女が自殺したとは、はっきり知らされなかったのである。

 ところが8年前のこと。1908年に出版された「赤毛のアン」の100周年にあたる2008年、モンゴメリーの死について、ある記事が新聞に掲載された。
 寄稿者は、モンゴメリーの孫娘(三男スチュアートの娘)であるケイト・マクドナルド・バトラーさんであった。バトラーさんは、父親から聞いていた祖母の死について、2008年9月27日、グローブアンドメール紙で公表したのである。

 彼女は次のように書いた。
「これまで明らかにされなかったが、L. M. モンゴメリーは薬の飲み過ぎにより67歳で自分の生涯を終えたのである」

 これを読み、ショックを受けた人もたくさんいただろうと思う。私はこの時、「彼女もまた・・・」と、自殺した数々の作家を思い出した。


▲家の近くの小公園に立つモンゴメリーの小さな記念碑 

 家を通り過ぎると、小さな公園があり、そこに、モンゴメリーの小さな記念碑が立っていた。
 この記念碑を見ながら、「どうして、こんなに小さいのだろう」と、私は不思議だった。これは、前に見たグレン・グールドの記念碑(トロント市アベニュー×セントクレア角の公園内)より遥かに小さいのだ。作家と音楽家という違いはあるが、どちらも世界の人々に愛された高名なカナダ人という点では共通しているのに、である。この記念碑の小ささは、モンゴメリーの死に方に共感できない人々の思いが、反映されてのことだろうか。

 家の付近を歩きながら、私は、彼女が家から出てくるのを想像した。
「ああ、こどもの時に聞いたあのモンゴメリーという名前の作家が、本当に目の前を通り過ぎて行く」
 思いがけなく出会ったこの偶然を慈しみ、作家の後ろ姿をそっと見送っている自分がいた。

花も咲き
さえずる鳥の
にぎわいに
自ら生を
閉じる春の日

【注】モンゴメリーが亡くなった日、ベッドサイドに残されていたノートについては、ここでは省きました。

【参考文献】 
The gift of Wings by Mary Henley Rubio, Doubleday Canada, 2008
The Selected Journals of L.M. Montgomery Volume V, Edited Mary Rubio & Elizabeth Waterston, 2004

  〈おわり〉

(2016年3月24日号)



 
 


 
 
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