【あれから5年】 
東日本大震災・津波にのまれた生徒教師84人
石巻市立大川小学校の悲劇の現場を訪ねて


〈 リポート・色本信夫 〉

 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、岩手・宮城・福島など東北3県を中心に死者・行方不明者1万8455人を出した。あれから5年がたった。数多くの地震・津波の被害が伝えられるなか、筆者の脳裏には、宮城県石巻市の大川小学校の悲劇が今でもこびりついて離れない。
 大震災の7カ月後、2011年10月、筆者は石巻市を訪れた。JR石巻駅から「マンガロード」商店街の津波襲来の跡を見ながら、石ノ森萬画館(漫画家・石ノ森章太郎の記念館)にたどり着き、高台の日和山公園から 旧北上川の流域周辺を見下ろす。それは惨たんたる光景であった。
 そして、今年4月19日、再び石巻市に足を運んだ。商店街はだいぶ復興して商店は活気を取り戻しつつあると感じた。また、旧北上川に架かる新しい橋も工事が進んでいた。ただ、川の周辺にあった住宅街は、当時、津波の傷跡を生々しく残していた無残な家々がすっかり取り除かれ、あたり一面が更地に変わっていた。住人の大部分は別の地区に用意された仮設住宅で暮らしているそうだ。

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 石巻市立大川小学校の旧校舎は市の中心部からおよそ20キロ離れた所にある。鉄道やバスの路線がないため、タクシーを利用することにした。石巻観光タクシーの白岩武(しらいわ・たけし)運転手は、隣町、女川(おながわ)町で被災し、家と車を津波で流された。今は石巻の仮設住宅に住んでいる。「子供たちは独立して石巻にいるので、自分は女川に戻らないかも知れない」と語る。運転しながら震災に関する情報を提供してくれる白岩さんの話は貴重だ。


▲石巻市総合運動公園の一角に展示してある1964年東京オリンピックの聖火台

 石巻商業高校や石巻専修大学の校舎を眺めながら進むと、石巻市総合運動公園に。ここには市民のための野球場、サッカーグラウンド、陸上競技場が入っている。なんと1964年東京オリンピックの時の国立競技場の聖火台が置かれてあるではないか。戦後復興のシンボルにもなったこの聖火台は、東日本大震災からの復興のシンボルとして石巻市に貸し出されたのだという。


▲石巻市開成地区にある仮設住宅。現在1万人が住んでいる

 野球場があったここ開成地区は、仮設住宅に変身し、同じ形をした仮設のユニットがずらっと並んでいる。各ユニットの間取りは、一人住まいは4畳半ひと間、3人以上の家族の場合は3〜4部屋となる。ここの仮設は、当初、来年3月までの予定だったが、1年延びて再来年3月までとなった。被災者は避難所に入ったあと、仮設に移ってくるわけだが、この先、家を建てる計画が思うように進まず、やむを得ず仮設生活を延長する人が多いのであろう。
 仮設の人口は、現在、1万人。治安上の理由で、交番もある(正式の名称は、開成地区臨時交番)。


▲石巻市立二俣小学校の敷地内に設けられた大川小学校のプレハブ校舎(左側)

 途中、石巻市立二俣小学校の前を通る。この小学校の敷地には、あの大川小学校が「間借り」してプレハブ校舎で授業を行っている。旧大川小学校とは距離にして10キロほど離れた場所だ。

 北上川(追波川=おっぱがわ)南岸の堤防に沿って東へ進む。川の両岸では随所で護岸工事が行われている。河口の太平洋・追波湾(おっぱわん)に近づくにつれ、津波の被害の状況がけわしくなってくる。


▲大川小学校旧校舎前のお地蔵さんが立つ祭壇にはお参りする人たちが訪れる

 旧大川小学校に到着。廃墟と化した校舎が残酷なまでの痛々しい姿を見せている。ゆかりのある人たちであろうか、特設された祭壇のお地蔵さんに花と線香を捧げ、黙とうしていた。


▲大震災前に撮った航空写真。中央左側は大川小学校、その周囲は住宅街。左上は学校の裏山、右上は北上川(追波川=おっぱがわ)の堤防


▲大震災前の大川小学校校舎と付近の風景

 あの日、大川小学校の生徒74人と教職員10人の計84人が、押し寄せてきた津波に襲われ、亡くなった。大震災前の航空写真が展示してあったが、小学校の周囲は家がたくさん建っていて、平和な町の様子を呈していた。その住宅街も瞬時にして全部、流されてしまった。 強大な自然のパワーに無力な人間は、何も抵抗することができなかった。それが悔しくてならない。

 全校生徒108人のうち74人、大震災発生当時、校内にいた教職員11人のうち10人が犠牲になった大川小学校の悲劇はどのようにして起きたのか。

 2011年3月11日午後2時46分、大地震が発生。ただちに教師の指示で生徒たちは校舎から校庭に移動。その頃には、保護者の迎えの車が5〜6台学校に来ていたという。
 2時52分、大津波警報が発令された。小学校のすぐ南側には裏山があるが、教師たちは生徒たちを200メートル西側の新北上大橋のたもとにある「三角地帯」と呼ばれる小高い場所を避難場所として誘導した。その直後、ものすごい音がして巨大な津波が付近一帯を襲った。その高さは10メートル、2階建ての校舎の屋根を乗り越えたという。


▲無残な姿を見せる校舎の建物


▲校舎と体育館を結ぶ2階の渡り廊下も壊滅


▲運動場があった場所から破壊された校舎を望む


▲コンクリート壁が壊れた教室に残っていた生徒の机

 廃墟と化した校舎は、建物のコンクリートの部分がかろうじて残されていた。本校舎や体育館の跡、教室だった場所に残っていた生徒の机など、見るに耐えられないおぞましい光景だ。津波が襲った様相を想像するだけでも恐ろしい。


▲校舎の南側には裏山が・・・

 生徒の中には、裏山に逃げて助かった人もいたが、ほとんどが津波にのまれて亡くなった。教師の誘導で避難場所に向かった生徒たち。そのグループ行動からはずれて、自分だけが咄嗟(とっさ)に裏山に登って助かった男の子。グループから我が子を連れて車で帰宅して助かった親。現場は大混乱に陥った。

 「助かった子供の親が子を亡くした親からうらまれるケースもありました。いつも車で送迎してくれていたのに、なぜ、あの日、自分の子供だけを連れて帰ったのかと、我が子を失った悲しさ、悔しさを、どこにぶちまけていいのか分からないといった状態でした」

 現在、生徒の遺族は石巻市を相手取り大川小学校の津波災害をめぐる損害賠償請求の訴訟を仙台地方裁判所に起こしている。訴えによると、教職員は震災発生後の約45分間、生徒に校庭で待機するよう指示した。その後、津波が押し寄せ、訴訟対象の23人を含む生徒74人と教職員10人の計84人が死亡・行方不明になったというもの。

 仙台地裁は、大震災発生当時、校内にいた11人の教職員のうち、唯一生き残った男性教務主任の証人尋問を行うかどうかを決める。この教務主任は教頭に次ぐ立場だったが、「なぜ避難が遅れ、津波が来る川へ向かったのか」など、遺族側が抱いてきた疑問に対する説明が求められている。しかし、現在は休職中で、面会ができない状態が続いている。同校の校長(当時)は大震災の時、学校には不在だったという。【この項、河北新報(2016年4月20日付)の記事による】

 ところで、大きな犠牲者が出た大川小学校の旧校舎を保存するか否かで、住民の意見が分かれているが、今年3月26日、石巻市は震災遺構として保存する方針を固めた。旧校舎をめぐっては、遺族や住民の間で、「災害の教訓を後の世に伝えるため保存すべきだ」という意見と、「見るのがつらい。取り壊してほしい」という意見が出ていた。石巻市は、「震災遺構を残すことによって、あの災害を忘れることなく、後世に教訓を伝える。そして犠牲者への追悼や祈りの場にするのが妥当」と判断したようだ。

 大川小学校の旧校舎を去る際に、もう一度、振り返ってみた。そして、地震のあと、すぐ学校の裏山に全員が避難していたら、これほどの悲劇にいたらなかったであろうにと悔やまれてならなかった。

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 大川小学校のあと、運転手の白岩さんは近くの長面(ながつら)地区にも連れて行ってくれた。ここは、トロントの石原牧子監督が製作したドキュメンタリー映画「『長面』きえた故郷」の撮影現場となった場所。トロント在住のモガール和子さんと大震災までここに住んでいた和子さんの実妹、福田祐子さんの実家がある古里で、彼女らが登場する映画は、トロント、オタワなどカナダ各地や日本(仙台など)で上映され、話題を呼んだ。


▲家もお店もすべてなくなってしまった長面(ながつら)地区。左後方は北上川(追波川)

 姉妹はこの長面で育ち、大川小学校に通学していたのだ。大震災がつめ跡を残した長面地区は、住宅や商店がすべて津波で流され、今は何もない広い原っぱになっている。湿地帯のように水があちこちに溜まっているが、これは塩水だそうだ。ここの住民たちはよその土地に移り、厳しい生活を強いられているのであろう。


▲親切に案内してくれた石巻観光タクシーの白岩武運転手

 JR石巻駅までの帰り道、白岩さんが車中で、自らの被災体験談を話してくれた。
「今、発生している熊本地震の場合でもそうですが、東日本大震災の時も、ふだん、避難訓練をしていても、実際に地震になると、それが生かされないということを痛感しました。津波が起きて車で緊急避難する時、道路の渋滞に出くわしますが、車を捨てて逃げるか、そのまま車に乗って行くか、運命の分かれ道ですね。
 避難所に入る時は、最初、生きているだけでいいと思う。それが、寝る場所、毛布・ふとん、食べる物がほしくなる。満ち足りてくると、もっと欲が出てきます。避難所や仮設住宅にいる時は、前に進もうとする意欲がわいてくるが、新しい家に入って落ち着いたと思う人で、精神科に行く例が多いです。失ったものの大きさ、家のローンの支払いなど悩みのタネは尽きないのでしょうね」

 今回、大震災5年後の被災地を訪れて、あらためて津波の脅威を思い知らされた。

(2016年5月5日号)  



 



 
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