非常事態宣言が続くパリを歩く(1)
一見、平和そのものの市民生活だが・・・


〈 リポート・いろもとのりこ 〉

 外国人観光客を年間8,000万人以上迎えるパリ。昨年ほぼ2,000万人を達成したと大騒ぎしている日本は2020年までに倍の4,000万人を目指しているというが、パリはそれを大きく引き放し、名実共に世界一を誇る観光地だ。
 しかし、それは2年前までのこと。昨年1月に起きた「シャルリー・エブド新聞社」へのテロ襲撃事件に始まって、ユダヤ系スーパーへの襲撃事件、そして昨年11月の「バタクラン劇場」や「サッカー競技場」襲撃事件など一連の同時テロ事件で、パリのイメージは様変わりした。

▲共和国の自由と革命の象徴であるマリアンヌ像があるレプブリック広場(Place de Republique)にはテロの犠牲者を悼むたくさん花やメッセージが置かれている


 そんなパリに着いたのは5月7日(土)。2年ぶりのパリである。翌日、さっそくバタクラン劇場に行ってみた。まずは劇場に近いレプブリック(革命広場)に足を運び、犠牲者を弔うたくさんの花やメッセージを目にした。事件後、この広場には大勢の人々が集まり「テロ反対」の声をあげていたのをニュースでたびたび見たものだ。


▲昨年11月多くの犠牲者を出した「バタクラン劇場」

 革命広場から歩いて10数分のところにバタクラン劇場がある。1864年に建てられたシノワーズスタイル(中国風)の劇場はこのあたりではひときわ目立つ建物であり、フランスの歴史的建造物に登録されている。この劇場は40年間にわたり、ユダヤ人兄弟が経営していたが、事件の2カ月前に売却したばかりだった。以前からユダヤ系をサポートするようなイベントが多かったため、反シオニズムの攻撃対象になっていたという。

■テロ事件が起きた背景

 フランスはイスラム系移民が欧州一多い国である。第2次世界大戦後、労働力不足を旧植民地から移民として大量に受け入れてきた。いわゆる移民一世である。私が初めてパリで生活をした1971年には3K労働(危険、きたない、きつい)はほとんどがアラブ系の移民たちに託されていた。

 45年前、当時はもちろんインターネットはなく、少ない情報でパリに行った私は、「パリはフランス人だけがいるもの」と思っていた。しかし、アラブ系移民の多さにびっくりした記憶がある。

 最初に行ったホテル学校でも生徒が料理実習で使った鍋や器具類の洗いはすべてアラブ系の下働きの人たちの仕事で、生徒は洗うどころか掃除も一切やっていなかった。言い方は悪いが、まるで奴隷扱いのようで驚いた。
 そのことに疑問を持つ生徒も先生もおらず、私のように「料理人は鍋釜洗うのも修業のひとつ」と聞いていたこととはまるで違う光景に目パチクリだった。

 アラブ系一世の人たちはそれでも仕事にありつけるだけましの生活だと自覚しているようだった。しかし、彼らの子供たち二世は、フランス生まれのフランス人。社会の差別に不服を持たないはずがない。ベルギーでのテロ事件も同じだ。

 シャルリー・エブド新聞社へのテロ襲撃事件は、イスラム教をあまりにも風刺した画風を掲載し続けたことで、フランス人でさえ「あれは行き過ぎだ」という声も出ていたくらいだから、だれもが「いつかは起きるだろう」と予測していたといわれる。


▲バタクラン劇場の近くにあるマレー地区東端のバスティーユ広場。フランス革命の発端の地でもある。中央の塔は1830年7月の革命を記念したもの。その左はバスティーユ新オペラ座


▲マレー地区にあるユダヤ系教会シナゴグ

 しかし、バタクラン劇場への襲撃テロ事件は無差別で犠牲者は若い人たちが多かった。強いていえば、経営者が元ユダヤ系であり、近くにユダヤ系教会(シナゴグ)やユダヤ系の人たちが多く住むマレー地区にあること。同じ移民でも経済的、政治的、文化的にも有力者が多いユダヤ系に対し、社会的差別の中で暮らしているイスラム系の人たちの反発の象徴だったのかもしれない。

 さすがに今はテロ事件のすぐ後のように街のあちこちで兵隊や警官の姿は見かけないが、ユダヤ系の学校やイベントがある時は警備が厳しいそうだ。

■平和そのものの中での「非常事態宣言」

 5月のパリは一年で一番いい季節である。マロニエの花が咲き誇り、春の果物や野菜が店先をにぎわせる。カフェには春を待ちわびた多くの市民たちが憩い、おしゃべりに花を咲かせる。


▲平和そのものを感じさせるパリ市民の憩いの場、カフェ


▲5月の花、すずらんとライラックを売るかわいい花売り娘

 今年のパリも同じである。「え? これが厳戒態勢のパリ?」。いつもと変わらない風景に安心の反面、拍子抜けしたりして・・・。

▲女性警官(右)に呼び止められ、カバンの中身を調べられた ▲地下鉄の入り口で抜き打ちで持ち物を調べられたり質問を受ける


 ところが、マレー地区の地下鉄の駅に向かう途中、とつぜん女性警官に呼び止められた。「カバンの中を調べさせてください」と。こんなおばさん(いえ、おばあちゃん)にテロを疑うのかと思ったが、その前にパリに住む人から「時々、抜き打ち的に呼び止められることがあるので、驚かないように」と忠告されていたので、割合、冷静に対処できた。というより、「あ、来た来た」と内心ワクワクもした。

 これがふだんと違う「非常事態宣言」である。疑わしきは令状なしに調べたり、家宅捜査ができたり、「署まで同行してください」と言えるのである。今のところ今年5月末までこの態勢が延長されている。

■観光客復帰を願うシャンゼリゼ通り歩行者天国

 農業国フランスが観光に力を入れ、その収益に重きを置くようになって久しい。しかし、相次ぐテロ事件で観光客は激減した。特に5月から夏場は稼ぎ時である。それでもアメリカ人や中国人はけっこう多いが、日本人は本当に少ない。何事にも過剰反応ぎみの日本人のこと、大手旅行社のヨーロッパ旅行募集広告を見ても、まず「パリ」の字は見あたらない。


▲スペイン出身のアンヌ・イダルゴ現パリ市長。シャンゼリゼ通りの歩行者天国を決めてメディアのインタビューを受ける

 そんな状況を少しでも改善しようと、パリのアンヌ・イダルゴ市長はつい先日、「6月から第一日曜日のシャンゼリゼを歩行者天国にする」と、発表した。これまで1年に1回くらい、農業展示会などの大きなイベント以外、シャンゼリゼ通りが定期的に歩行者天国になったことはない。凱旋門を中心に重要な交通の要所を交通止めにすることは影響も大きく、反対も多かったそうだ。

 しかし、それにも増して世界一の観光名所シャンゼリゼ通りを歩行者が楽しむ光景を世界に発信し、「安心していらして下さい」と呼びかけたかったのだろう。予想通り、このニュースは世界中に流れ、日本からもテレビ局の取材班が来 ていた。


▲1945年5月8日の第二次世界大戦戦勝記念日を祝って凱旋門からグランデ・アルメ通り(Ave. de Grande Armee、凱旋門に対してシャンゼリゼ通りの反対側の通り)をパレードするフランス軍の音楽隊


▲戦勝記念式典後、シャンゼリゼのカフェでくつろぐ(左から)社会党書記長のアルレム・デジール(Harlem Desir=黒の背広)、女性教育大臣のナジャ・ヴァロウ−ベルカセム(Najat Vallaud-Belkacem)、プルミエ・ミニストル(首相)のマニュエル・ヴァルス(Manuel Valls=植木で顔が半分かくれた男性)の各氏

 その歩行者天国の手始めが5月8日の日曜日「第二次世界大戦戦勝記念日」に行われた。この日は凱旋門にある戦没者慰霊碑にオランド大統領が花輪を捧げ、式典が行われた。式典後、軍隊の音楽隊によるパレードが荘厳に取り仕切られた。パレードは今まで以上にフランスの威厳を象徴するかのように感じたのは思いすぎだろうか。それにしても好天にもかかわらず、それほど多くの見物人はいなかった。


▲来月(6月)から第一日曜に歩行者天国になることが決まったシャンゼリゼ通り。観光客復帰になるだろうか・・・。

 パリが世界一の観光都市であることを維持するには、何よりもこれ以上のテロが起きないことが絶対条件である。それにはただ、厳しく取り締まるだけではなく、移民政策や社会差別、若い人たちの就職問題を解決することが先決だ。
 だれでもそのことを一連のテロ事件で感じているのだが、そう一朝一夕には解決できない。亡くなった犠牲者の命を無駄にしないためにも本当の平和を望みたい。

(2016年5月12日号)



 



 
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