我が町で起こりえたテロの惨事(その2) 
爆破計画未遂の容疑者がたどったゆがんだ人生


〈 オンタリオ州ロンドン市 ウィルソン夏子 〉

 8月10日(水)に起きたロンドン市内ショッピングモール爆破未遂事件の詳細は、次第に明らかにされてきます。アーロン・ドライバー(Aaron Driver =24歳)は、RCMP(連邦警察)の警官と直面し、座ったタクシーの後ろの席で、爆発物を仕掛けました。

▲アーロン・ドライバー ▲爆発物が仕掛けられ破片が散乱するたタクシーの運転席


 その時、彼は警官の銃撃で死亡したということが、のちに明らかになりました。当初、RCMPは発表しませんでしたが、彼の父親によれば、最初の銃弾は、彼の肝臓から心臓に貫通し、2発目は脾臓(ひぞう)に当たったということです。

 父親は、息子が死に至る経過を、「警察に追い込まれた自死」というようなことを言っています。が、父親は、息子を死に至らしめた警官を非難しているわけではありません。
 「どうしてこんなことになってしまったのか」という父親としての悔恨(かいこん)と、「悪夢は本当になってしまった」という諦観(ていかん)が父親の言葉に感じられます。


▲事件を報じる英字新聞

 では、一体、この青年はどうして、このような終わり方を迎えることになったのだろうかということを考えてみたいと思います。

 アーロンは、1991年8月18日にサスカチワン州で生まれました。家族はキリスト教徒で、父親は、最近、退職するまでカナダ空軍に勤めていました。この家系は、代々軍人が続いており、父親で4代目になるそうです。経済的にはごく普通の家庭のようです。

 アーロンには、姉と兄がいます。父親によれば、アーロンは小さい頃から、特に母親と近かったそうです。
 「私が、おしめを替え、食事をさせると泣きましたが、母親に渡すとすぐ泣きやむんです。母親との結びつきは、不健康なほどだったです」と父親は言っています。

 ある日、突然、母親が病死します。彼が7歳の時です。母親は脳腫瘍(のうしゅよう)で亡くなりました。彼にとって、この時の衝撃は大きく、それ以後、「彼の性格が変わったようだった」と父親は言っています。

 食事を作ってくれる人、いつも一緒にいる人、毎晩「お休みなさい」と言ってくれる人。その人が、いなくなってしまったのです。彼の悲嘆にくれる様子は、目に浮かびます。母親が死ぬと、アーロンは、一時、食事を取らなくなったそうです。「食べなかったら、お母さんの所へ行ける」と思ったからだそうです。

 母親の死の1年半後、父親が再婚します。すると、アーロンは父親から離れ始めます。12、3歳の頃には、学校を休むことが多くなります。この頃、「両親を殺したい」という意味の息子の詩が引き出しにあったと父親は語っています。父親は、軍隊の仕事の都合で、土地を転々と移動し、アーロンが16歳になるまでに20回も転居したそうです。

 16歳になると、父親の家を出て、一人で住むことになります。一人になると、何かを模索しはじめます。見つけたものはマリフアナという薬物でした。この頃、「万引きもした」と自分で言っています。

 アーロンが17歳の時、ガールフレンドが妊娠します。彼とガールフレンドは、姉の家に同居し、赤ちゃんが生まれてくる準備をします。揺りかごや、色々な赤ちゃん用品も整えて待っていました。ところが、赤ちゃんは、出産時に死亡してしまうのです。この出来事も、彼にとって、大きな衝撃となりました。

 1カ月後、ガールフレンドとは別れてしまうことになります。この当時を知っている彼の友人はこう話します。
「もし赤ん坊が生まれていれば、きっとすべてが変わっていたと思う。赤ん坊の世話をし、育っていくのを見れば、きっと彼は、違った道を歩んだはずなんです」

 生まれるはずだった赤ちゃんは、男の子でした。この「息子」の死を境にして、彼は宗教に興味を持ち始めます。ネットでイスラム教に出会い、イスラム教徒に改宗します。

 「キリスト教は、宗教に捧げた人生をいかに生きるか、ということは教えてくれなかった」と言い、「メディアで、イスラム教と信者が、否定的に描かれているのを見て、発起させられた」と言っています。

 イスラム教徒は、豚肉を食べることは禁じられていますから、大好きなベーコンもあきらめ、お酒もやめたそうです。キリスト教は父親が信じているものであり、息子は、一つには、父親に反抗するためにイスラム教を選んだような気が、私(筆者)にはします。

 さて、そのうち、彼はイスラム教の過激派グループに興味を持ち、インターネットのサイトで活躍します。熱狂的にテロリストグループを賛美するのです。ツイッターで、過去に事件を起こしたテロリストたちのことを称賛します。ISIS(アイシス=イスラム国)とも交渉を持ちます。これらのネットでの活動から、彼が警察の目にとまったことは前回に書きました。

 そして、昨年(2015年)2月、アーロン・ドライバーは、カナダの大手新聞であるトロントスターの記者のインタビューを受けます。2時間も話したそうです。記事は、新聞に掲載されました。

 その記事で、私たちは、彼がどんなふうに過ごしてきたか、どんな性格の人なのか、想像することができます。この記事から、彼は数年、父親と断絶していることが分かります。父親のことを聞かれ、彼はこう答えています。
「僕の父は、まま父なんです。僕は幹細胞(Stem-Cell =ステム・セル)で生まれたので、本当の父親は誰か分からないんです。まま父は、過去に出会った程度の人です」

 記事の中では、彼の名前は伏せられていましたが、ある記者が彼の名前を探り当て、彼の名前は世間に知られることになりました。

 ここで私は考えます。記者のインタビューを受け、名前が偶然、世間に出たことで、彼は「過激派グループの一員としての自分」の位置を確信したのではないかと思います。彼が過激派であったからこそ、人は彼に興味を示したのです。従って「英雄的に殉死(じゅんし)する」こともいとわなかったのではないでしょうか。


▲アーロン・ドライバーが行っていたオンタリオ州ロンドン市のイスラム教モスク(正面)

 彼は、マニトバ州から引っ越し、1年前に姉とオンタリオ州ストラスロイ(Strathroy)に住み始めました。毎週、タクシーに乗ってロンドン市にあるイスラム教のモスク(礼拝堂)に行きます。信者は1,500人いるといわれ、とても立派な建物です。

 このモスクで、彼は暖かく迎えられました。モスクの人々は、簡単な仕事を彼に頼んだり、コーヒーを一緒に飲んだりと、親しみをこめて彼に接します。しかし、彼の過激的思考を知り、モスクの関係者は警察に連絡もしています。


▲ロンドン市のイスラム教モスク。以前は道路から中側が見えたのだが、現在は防御しているらしく建物が塀(へい)の代わりになっていて外からは見えにくい

 このモスクで、ある年配のメンバーが一人ぽっちの青年に同情を示し、簡単な家の仕事をやってもらったりして、親しくしていた人がいます。事件の1週間前にも会っていますが、「まったく、いつもと同じで、大胆な事件を計画しているということは、夢にも考えられませんでした」と言っています。
 事件後、この人は、警察の家宅捜査を受け、厳しい尋問もされてしまいました。
「私は、彼を信じ過ぎた」と新聞で言っています。

 アーロンにはロンドン在住の兄がおり、兄と弟は、事件の1、2週間前も、姉の家でビデオを見ています。
 「弟は、最近、高校卒業の証明書を手にしました。そして、自動車の修理工場でフルタイマーとして働いていました。最後に会った時にも、彼に何も変わったことはありませんでした」と兄の涙ぐんでいる声を、私はラジオで聞きました。

 つまり、彼が計画していることは、兄にも姉にも、親しい人にも読み取れなかったのです。
 「25歳の誕生日の前に、爆弾を仕掛けて、できるだけたくさんの人々を巻き添えにして、僕は殉死する」と考えたのでしょうか。彼は、それを「復讐」(ふくしゅう)と言っているのだと思います。不気味です。

 では、この不気味さは、どこから生まれたのでしょうか。それは、彼がテロリスト組織の過激思考に取りつかれてしまったからだと思います。人を殺すのはなんでもない、子供を殺す、女たちを強姦する、敵を残忍に殺す、というテロリストの野蛮さが、アーロンにとって、魅力的に映ったのでしょうか。恐ろしいことです。

 さて、この事件はいろいろな疑問や問題を提起しています。
・アメリカの FBI(連邦捜査局)は、どのようにして彼の最終のビデオを突き止めたのだろうか。
・彼に適用されたピースボンド(Peace Bond =謹慎契約)は、本当に効果があるものなのだろうか。本来なら、パソコンは使えなかったはずなのに、ホームビデオが、どうして作れたのだろうか。
・手作りの爆弾は、いつ、どこで、どうやって作ったのだろうか。
・過激的思考を変えさせることはできるものなのだろうか。
・国内にいるテロリスト容疑者をどのように監視すべきなのだろうか。
・タクシーの運転手は5分間も彼の家の車寄せにいたのに、包囲の警官から何の警告もなかったのはどうしてなのか。なぜ、運転手の安全は無視されたのか。など

 アーロンの父親は、現在、牧師になるために準備をしているそうです。父親としての苦悩が察せられます。爆弾で軽症を負ったタクシーの運転手さんは、命からがらタクシーから這(は)い出しましたが、この人の味わった恐怖は、簡単には消えないだろうと想像します。「もうタクシーの運転はできない」と嘆いています。

 この事件は、彼に親切にしたロンドンのイスラム教のモスクの人々、彼の町の人、隣りの町の人など、大勢の人々に忘れがたい心の傷跡を残して終わりました。

 「少年時代に、少年らしい趣味を見つけて、それに打ち込んでいたら、彼にはもっと違った人生があったかもしれない」と、私は思います。
「人生にはイバラよりも、もっとたくさんのバラが咲く(無名人)」という言葉で、これを終わりたいと思います。

暗闇を
選びて歩む
トンネルの
奥へ奥へと
悲しき二十四

〈終わり〉

(2016年8月25日号)



 
 


 
 
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