米軍魚雷で撃沈された学童疎開船「対馬丸」
那覇市の対馬丸記念館訪れ、事件をしのぶ


〈 リポート・色本信夫 〉

 12月8日は今から75年前の1941年(昭和16年)、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争がぼっ発した日である。この戦争によりさまざまな悲劇が生まれた。去る10月28日、筆者は沖縄県那覇市の対馬丸記念館を訪れた。ここでは、学童疎開の子供たちが乗っていた貨物船「対馬丸」(つしままる)が米軍の魚雷攻撃を受け、およそ1,500人が犠牲となるという痛ましい事件を伝えている。


▲対馬丸記念館の外観

 対馬丸記念館は那覇市内の北西、東シナ海に面した「波の上ビーチ」と呼ばれる海辺に近い地区に建っている。学童疎開船の悲劇を後世に語り継いでいこうと、国の遺族への慰謝事業として2004年8月にオープンした。

対馬丸事件を振り返る
 1944年(昭和19年)7月、サイパン島の日本軍が全滅。次はいよいよ沖縄が戦場になる危険が大きくなり、日本政府は沖縄の子どもやお年寄り、女性など10万人を県外に疎開させる決定を下す(本土に8万人、台湾に2万人)。
 沖縄県が策定した疎開計画で、国民学校初等科1年生から6年生まで、それに高等科の学童などの疎開が、8月14日から9月14日まで数回にわたって実施され、5,586人が九州に向かった。


▲学童疎開の子どもたちを乗せた貨物船「対馬丸」(6,754トン)

 疎開船「対馬丸」はそのなかの1隻で、1944年8月21日、那覇港から学童834名、引率/一般827名を乗せ、僚船2隻、護衛艦2隻とともに長崎へ向けて出航した。当時、米海軍は暗号を解読して、日本の船舶の動きを察知していたといわれる。
 翌8月22日、那覇の沖合から追跡してきた米潜水艦ボーフィン号(USS Bowfin)の魚雷攻撃によって、午後10時12分、鹿児島県トカラ列島の悪石島(あくせきじま)沖で撃沈され、学童780名を含む1,476名が犠牲となった。


▲米潜水艦の魚雷攻撃により沈められた日本の船。対馬丸が撃沈された場所は九州のすぐ南

記念館の館内を巡る
 対馬丸記念館には、犠牲になった学童たちが通っていた学校の教室(再現)、学童たちの遺影、数は少ないが遺品、生存者のコメントなどが展示してある。また、ホールでは「悲しい歴史を学び、平和の尊さを知る」をテーマに舞台「朗読で知る対馬丸」が上演されていた。


▲疎開の前に撮影した生徒・教師・父母の記念写真(那覇市の隣り浦添市の浦添国民学校)


▲犠牲になった学童たちが学んでいた教室(再現)。黒板には「昭和十九年七月十七日(火曜日)」と日付が書き込まれている


▲疎開学童のランドセル

 まず、沈没当時の様子を知るため、資料をもとに製作された映画を見る。あの日の夜、1944年8月22日午後10時すぎ、長崎に向かって航行していた対馬丸は、米海軍の潜水艦「ボーフィン号」から発射された魚雷が命中。船内はぎっしり満員で、ほとんどの船客は船倉の板の床の上や、蚕棚(かいこだな)のような場所で眠るともなしに時間を過ごしていた。

▲対馬丸の船内風景(スケッチ) ▲蚕棚(かいこだな)のような場所に疎開児童たちが・・・(スケッチ)


 午後10時10分、ボーフィン号から発射された魚雷3本が対馬丸の船倉左舷に命中。間をおいて別の魚雷1本が右舷船倉に命中した。
 突然、大音響とともに船が揺れ、傾き始めた。学童たちのなかには救命胴衣を身につける者もあったが、間に合わない者も多数いた。魚雷の爆破で、すでに絶命した者、大けがを負った者、逃げまどう者・・・船内は一瞬にして地獄と化した。

▲救命胴衣を着けて甲板に並ぶ学童たち(スケッチ=記念館の映画より)  ▲沈没する対馬丸(スケッチ=記念館の映画より)


 船内は海水が流れ込み、階段もすぐに海水につかって使えなくなる。階段へいち早く登った者はかろうじて船倉から脱出できた。子どもたちの叫び声が掲示してある。

「先生、助けて!」
「お母さん、お父さん、助けて!」
「泣いたら前が見えないよ。泣かないで!」

やがて、引率の教師らしき人が叫ぶ。
「早く飛び降りて船から離れろ!」

 犠牲者の遺体の多くは、奄美大島の宇検村などの海岸に流れ着いた。また、生存者たちはトカラ列島の無人島に漂着、あるいは漁船に救出された。10日間も海の上を漂流して助けられた人もいたそうだ。


▲対馬丸記念館に展示されている学童犠牲者たちの顔写真


▲那覇国民学校の犠牲者の名前リスト。氏名と死亡当時の年齢が記されている  


▲那覇市久茂地(くもじ)国民学校の犠牲者氏名 

 救助された人たちは、警察や憲兵から箝口令(かんこうれい)がしかれ、「撃沈の事実は決して話してはいけない」と堅く口止めされた。しかし、疎開先から家族に来るはずの手紙がこないことから、たちまち皆の知るところとなった。
 このため、疎開に対する反発が起きたが、1944年10月10日、那覇市が大空襲(十・十空襲=じゅうじゅうくうしゅう)に遭ってからは、再び疎開者が相次いだ。


▲1944年10月10日、米軍の空襲を受けた那覇港および旧那覇市街(この写真は沖縄県公文書館提供) 

 那覇では大勢の人が家を焼かれ、着の身着のままで逃げ延びたが、対馬丸に乗っていた疎開児童の約80%が那覇の子どもたちだったので、彼らの学校での記録や、友達や教師、家族と写した写真など、思い出の品物が空襲で家とともに灰になってしまった。対馬丸犠牲者の遺族は、家族を失った悲しみも癒(い)えないうちに、戦争に巻き込まれていった。

展示で目に止まった記述
 記念館には、犠牲者の遺族や関係者の戦争に対する痛烈なコメントが掲示されていた。
「学童疎開は、安全な場所へ避難させ命を大切に守るというよりも、軍の食糧を確保し、戦闘の足手まといになる住民を戦場から退避させ、果てしなく続く戦争の次の戦力となる子どもを確保するのが真の目的でした。
港に集められた子どもたちはそんなことも知らず、ただ『ヤマト(本土)へ行ける』とはしゃいでいました。」

 生きてなお苦悩する生存者の言葉も印象的だった。
「戦争は兵隊が戦うものだと思って、難儀して疎開したのに、帰ってきたら大切な母や兄妹がいない。その時、兵隊でもない家族や友人たちを奪った戦争を心の底からのろいました」

「疎開児の命いだきて沈みたる・・・」
 1997年(平成9年)12月、科学技術庁海洋技術センター(現・独立法人海洋研究開発機構)の海底探査によって、海底に横たわる対馬丸の船体が発見された。


▲対馬丸事件の犠牲者の遺族が初めて悪石島(あくせきじま)を慰霊訪問(1964年)


▲1977年、第2回海上慰霊祭が行われた 

 遺族は遺骨収集と船体引き揚げを政府に要請したが、引き揚げ不可能との回答を受けた。その結果、船体引き揚げに代わる遺族慰謝事業として全額国庫補助により対馬丸記念館を建設、撃沈事件から60年後の2004年(平成16年)8月22日に開館したものである。

 対馬丸が海底から発見されたことで、天皇陛下がお詠みになった短歌が掲げられている。

疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出されけり

 天皇陛下と美智子皇后さまは、2014年6月27日、沖縄旅行の際、対馬丸記念館をご訪問になった。

 対馬丸記念館側では、「館内には、対馬丸事件の経過や数少ない遺品や遺影を、子どもたちにも理解できるように展示しています。また、沖縄で唯一の子どもの記念館として、平和発信と子どもたちの未来を創造する活動を行っています。沖縄にいらっしゃる機会がありましたら、ぜひ、対馬記念館にも足を運んでください」と語っている。

・対馬丸記念館
〒900-0031
沖縄県那覇市若狭1丁目25 - 37
(モノレール県庁前駅から徒歩10分)
Tel : 098-941-3515
E-mail : uketsuke@tsushimamaru.or.jp
www.tsushimamaru.or.jp

(2016年12月8日号)



 
 


 
 
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