北国に咲いた「SAKURA」とともに歩む
モントリオールの和食レストラン経営者
石井紀子さんの人生航路


〈 取材・小柳美千世 〉

 1973 年、モントリオールに石井紀子さんが日本料理レストラン「SAKURA」をオープンしたのがこの年である。

 当時のモントリオールは、1976年に夏季オリンピックが開催することが決定し、街中が活気にあふれて、誰もがこの世界的イベントに希望を託していた時代だった。


▲石井紀子さん(「SAKURA」入り口にて)

 時代の流れに沿いながら、43年もの間「SAKURA」の暖簾(のれん)を守り続けてきた石井さんに、その想いなどを伺った。

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小さい頃の夢は何でしたか?
 私は、土佐の高知、四万十川(しまんとがわ)の上流にある窪川という小さな町に生まれました。大自然に恵まれ、川では川魚やカニを取ったり、山では木に登ってターザン遊びやチャンバラをしたりと、男まさりの子供でした。

 そんな私のもうひとつの楽しみは、晩酌をしている父のひざに座って、異国の思い出話を聞くことでした。
 私の父は、第二次世界大戦争時にソ連(現ロシア)で捕虜になっていた帰還兵だったのですが、その父の思い出話を聞いているうちに、いつか私もロシアに行き、自分の目で世界を見てみたいという夢を持ち始めたのです。

 やがて大人になり、ついにその夢がかなうところとなって、1962年 11月8日、横浜港からバイカル号という船に乗って、2日半かけてナホトカ港に到着しました。私が21歳のときです。当時は、自分の夢をかなえたい一心だったと思います。

 それから、列車でハバロスク、モスクワ、チェコ、ポーランド、ウィーンを回り、ファッションモデルをしていた親友を頼ってパリに行きました。

 パリではフランス語の学校に通いながら、道行く人誰もがおしゃれで小粋で、どこを見ても絵になる街、パリにいつか住んでみたいと思うようになりました。

 当時のパリは、今と違って和食の知名度が低く、日本料理レストランと言ったらモンマルトルに小さなうどん屋があるくらいでした。日本食なしの生活を考えられなかった私は、ないのなら自分で作って、同時に日本食の美味しさ、美しさ、伝統と文化を外国の人に伝えてみたいと切に思うようになったのです。

モントリオールに来ることになった経緯は?
 パリに店を出すためには資金が必要ですから、1963年7月に日本に戻ってから、父が残した遺産を元手に、大阪の北新地で「アラジン」というナイトクラブをオープンしました。女がひとりで一番早くに資金を稼ぐなら、水商売がいいと思ったからです。店の名付け親は、友人の作家、黒岩重吾先生です。

 当時、22歳の私が北新地で一番若いママさんでした。まだカラオケがない時代でしたので、「アラジン」ではピアノやギターの生バンドが入り、お客様もその場で歌えるような雰囲気を作りました。これが大人気となり、18坪の小さいところから始めた店も3年後には大きなフロアの店にすることができました。

 次の店では、客席でサービスしていたホステスが、音楽が替わると、台の上でゴーゴーガールとして踊りだすアイデアが大人気、高度成長の波にも乗って、たくさんのビジネスマンの方たちにひいきにして頂きました。

 接待で来られた方たちが、次回オリンピックがカナダのモントリオールというところで開催される話をよくしていたので、ここでもまた、自分の目でモントリオールという街を見てみたいと思ったのです。

 3回ほどモントリオールを訪れてみて、ここはフランス語を話すところですし、ニューヨークにも近いし、たくさんの移民が生活していてパリよりも住みやすそうだ、日本食レストランを開くならパリでなくここがいい!と思うようになりました。そして、日本の店を売り払って、5年間の売り上げを持ってやってきたのです。

 最初の2年間は蓄えも十分あったので、ちょうどよい店の物件を探しながら、海外旅行をしたりして遊んでいました。

レストランの名前が「SAKURA」になったのは?
 1973年7月、私が32歳のときです。モントリオール市内のクレセント通りに45席の小さいお店を開くこととなりました。

 まだ店の名前が決まっておらず、弁護士のところに出向いて、さて、店の名前を決めようとする際に、私の旧姓が「遠山」なので、そうだ、「遠山の金さん」から連想して、日本らしい「SAKURA」にしようということになったのです。パッと咲いてパッと散る潔(いさぎよ)さも私の性分に合っているような気がしましたから。


▲仕出し準備に追われる石井さん(52歳のころ)

 飲食業のノウハウはすでに日本で経験していましたので、店をオープンさせるのにひとりで奮闘しました。

 店の内装を日本風にしたいと思い、知人に和風建築に精通している建築会社として紹介された、その会社の社長だったのが亡くなった主人、ハロルド石井でした。バンクーバー生まれの日系二世でしたが、店の経営に口を出さない代わりに、子育てはもちろんのこと、家庭の細々したことなどを助けてくれた人でした。



▲(左から)石井紀子さん、娘の舞子さん(2〜3歳のころ)、夫のハロルド石井さん


▲現在1歳の孫娘が生まれて間もない頃の写真。(左から)石井さんの娘・舞子さん、孫娘・HANA ちゃん、石井紀子さん

 まさかこの私が、モントリオールでレストランを経営して、子供を産んで、今は孫までいて、そんな人生が送れるなんて夢にも思っていなかったことです。亡くなった主人には、本当にありがたいと感謝しています。

今までお店を経営してきて思い出に残る出来事は?
 誰も知らない場所にひとりで来て商売を始めたわけですから、最初は大変なことも多かったのですが、その都度、その都度、いろいろな方と出会って助けて頂いてきました。

 モントリオール・オリンピック(1976年)の頃には、日本からのジャーナリストをはじめ各関係者が毎晩のように来てくださり、ケータリングの注文も増えて、店は大はやりとなりました。つくづく、よい時代に店をオープンしたものだと思います。


▲お値段に合わせて本格日本料理を味わう「おまかせ御膳」

 オープン当初から、日本からのビジネスマンをはじめ、日本食が好きな地元の方など、さまざまな職種、人種の方たちに来て頂いています。

 中には、平社員だった頃から接待に使って頂いていた方が、今は立派な重役になられた方もいらっしゃいますし、リタイアした今でも足しげく通ってくださる方もいらっしゃいます。

 また、最初は親御さんに連れられて来ていた方が、大人になった今でも家族で通ってくださる方もいらっしゃって、そうなると、もう、家族のような気安さでお食事して頂いています。

▲「SAKURA」の入り口 ▲店のロゴ 


 やがて「SAKURA」も本格的な寿司を出そうということとなり、次の店では、大工だった夫に頼んで、カウンターの内側、寿司を出す手前にホースで水を引いて小さな川を作りました。スイッチを押すと水が出て、そこで寿司をつまんで汚れた手を洗えるようにしてもらいました。金魚を泳がしたりしていたので、親に連れられてきた子供がそれを面白がっていました。

 現カナダ首相ジャスティン・トルドーさんも、そんな子供のひとりでした。お父様でもあり、カナダの元首相、ピエール・エリオット・トルドーさんには、本当に良く通って頂きました。

 カウンターに、ピエールさん、そして3人の子供たちが行儀よく並んで座り、金魚を面白がって見ていましたよ。ピエールさんは、お子さんといらっしゃるときは決してお酒は飲まず、子供たちには好きな飲み物を注文させていましたが、「まずは食事を食べてから、その後に飲むようにしようね」とやんわりと伝えていました。

 ピエールさんは、現職を引退された後も、よく胸に赤いバラの花を挿していらっしゃってました。冬の寒いときは、ロシアの要人にもらったという毛皮の帽子をかぶって来られました。

 「大切な帽子なので忘れるといけないのでね」と言って、自分の目の前、テーブルの上に置いて食べていました。ピエールさんは、お寿司を好んで食べたというよりは、酢の物とか煮物とか、和風のおかず類が好きでしたね。

 ずっと家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いているので、私はもうピエールさんのお子さんたちは呼び捨てにしていますが、ジャスティンが首相になって、本当に良かったと思っています。

 もちろん、お母様のマーガレットさんもよくいらしてくださいますので、ジャスティンが首相になることが決まったときには、2人で抱き合って喜び合いました。


▲ジャスティン・トルドー首相の家族と。(左から)ソフィー・グレゴワ夫人、ジャスティン氏、長男グザヴィエくん、石井紀子さん 


▲ジャスティン・トルドー著の本を愛読する石井さん

 ジャスティンは、小さい頃からここの親子丼が大好きで、首相になる前ですが、ひとりでひょこっと親子丼を食べに来たこともあります。お店にいらっしゃった他のお客様が、びっくりしていましたよ。私のことはずっと「MAMA—SAN」と呼んでくれています。

 ピエールさんは、三男のミッシェルが雪崩で亡くなってからめっきり体調を壊して、次男のサーシャ(愛称:本名はアレクサンドル)が食事をテイクアウトしにきたときには、お粥(かゆ)なども持たせたりしていたのですが・・・。ピエールさんは、決して威張らず、贅沢(ぜいたく)もせず、とても尊敬できる素晴らしい人でした。

 今、生前ピエールさんが住んでいたお屋敷にはサーシャが住んでいますが、庭には、山椒や紫蘇、ミョウガなどが植えられていて、モンロワヤルからの湧水を利用してわさびなども作っているほど、お父様の代からずっと日本の食文化をリスペクトしてくださっています。

「SAKURA」の経営で、大切に思っていることは?
 なによりもまず、「仕事」を楽しんですることですね。毎日の生活では、嫌(いや)なことも辛いこともあります。でも、仕事としてお客様にお食事を提供するのなら、美味しかったと喜んでもらうこと、ここに来たら疲れが癒やされると言って頂くこと、そのためにはいつも真心を込めて笑顔で接客することを大切にしています。

 たまには休みを取ったら?!とも言われるのですが、わざわざ来て下さったり遠路はるばるいらっしゃったお客様に、私が店にいないということでがっかりさせたくないと思います。

今でも現役で毎日お店に立つ、その健康の秘訣は?
 毎朝、お店に来る前に45分ほどのヨガを35年間続けています。
 出勤したら、しっかり朝食や昼食を食べますよ。ピタパンにお野菜や蒸した鶏肉などをはさんで、お店で働いている子たちがびっくりするくらいしっかり食べます。

 ランチタイムが終わった後は小一時間ぐらい仮眠を取りますが、後はお店が閉店するまで立ち仕事です。
 夜は、軽く晩酌をしながら、チーズやオリーブ、サラダやフルーツ、パンや卵などを食べます。

 何かをやりたいと思ったら、一生懸命に目標に向かって努力する、そう思って今までやってきました。

これからの夢は?
 娘の舞子は、「お母さんのような、働きっぱなしの人生は嫌」と言って、教師の道を選びました。なので、「SAKURA」は私の代で終わりになると思います。


▲作家・黒岩重吾氏から贈られた打ち掛けが「SAKURA」の入り口に飾られている

 「SAKURA」の入り口には、ずっと着物の打ち掛けが飾られています。これは、もう20年以上も前になりますが、黒岩重吾先生が奥様と一緒にお店を訪ねて来て下さった際に頂いたものです。裏地に「人生、いずこにも夢あり」と自筆のサインを入れて下さっています。
 まさにその通りで、このモントリオールで始めた「SAKURA」を死ぬまで続けていくこと、それが私の夢です。

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 「SAKURA」の従業員は、長い人で勤続30年以上になる人もおり、ほとんどの人が10年から20年は勤続しているそうだ。人の入れ替わりが激しいこの業界で、これはオーナーの石井さんの人柄によるところが大きいに違いない。

 店内のインテリアや食器にも、石井さんのちょっとしたこだわりが見える。ピーンと張った真っ白のテーブルクロスも清々しく印象的だ。

 お昼のピーク時を過ぎた店内では、初老の男性が数人、それぞれひとりのテーブルで、ゆっくりと味わうようにお昼を食べていた。きっと激動の時代を駆け抜けていった元首相も「SAKURA」の真心のこもった料理に舌鼓を打ちながら心を癒やされていたのに違いない。

 桜の花言葉は「精神の美」、「優美な女性」だという。
石井さん自身が、まさにモントリオールで咲く「SAKURA」、そのものの人なのである。

(2016年12月15日号)



 



 
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